TNFD / 勉強用(初学者様向け) / 水資源 / 自然資本
この連載では、「海」というテーマを3回にわたって見てきました。
第1回では、海が長い間「企業から遠い問題」とされてきた背景を——文化的思い込み・制度設計・法的空白という3層構造で整理しました。
第2回では、海が物流・食料・気候・防災という4つのインフラ機能を担う「社会基盤」であることを、数字とともに確認しました。
第3回では、ESRS E3・TNFD・SBTNという枠組みの登場によって、「開示」から「目標設定」へと議論のレベルが上がっていることを見てきました。
ここまで読んでくださったサステナビリティ担当者さまの方の中には、こんなふうに感じておられる方がいらっしゃるかもしれません。
「海が重要なのはわかった。でも、自分が今の仕事の中で何をすればいいのか、まだ見えていない」
今回はその問いに、できるだけ実務的な角度でお答えしたいと思います。
海のテーマを考えるとき、最初から海洋政策や国際条約の話から入る必要はありません。
むしろ大切なのは、自社と海の接点を見つけることです。 企業と海のつながりは、思っているよりも身近なところにあります。
いくつか視点を整理します。
調達——原材料や食品原料の中に、海洋資源に依存しているものはないか。水産物はもちろん、飼料・油脂・増粘剤など、加工の川上をたどると海につながる素材は少なくありません。
物流——サプライチェーンは海上輸送に依存していないか。港湾リスク、海運コストの変動が自社の調達や出荷にどう影響するかを確認した上で、その前提に「海の健全性」があることを意識する。
排水——工場排水は最終的にどこへ流れていくか。流域管理の延長線上に海があることを、水担当者と共有できているか。
包装材・プラスチック——製品や包装材が廃棄・流出した場合、海洋プラスチック問題と無関係とは言えないか。特にEU市場で展開している製品は、2026年8月から適用されるPPWR(包装材規則)への対応が問われます。(注1)
これらの問いはどれも、新しいことを始めるためのものではありません。
すでに取り組んでいる水管理・廃棄物管理・サプライチェーン管理の「延長線上に海がある」という意識を持つことが、最初の一歩です。
もうひとつ、担当者として頭に置いておきたい視点があります。
海の問題の多くは、実は陸から始まっています。
海洋プラスチックの大部分は、陸から流れ出たものです。
海の富栄養化の主な原因は、農業や都市排水に由来する窒素・リンの過剰流入です。
マイクロプラスチック汚染の経路も、製品の製造・使用・廃棄という陸上のプロセスにあります。
つまり、海の問題に取り組むことは、ゼロから新しい管理体制を作ることではありません。水管理・廃棄物管理・包装材の設計——既存の取り組みを「海とのつながり」を意識して見直すことから始められます。
この視点は、ESRS E2(汚染)・E5(循環型経済)・E3(水および海洋資源)が相互に連動して設計されているという制度の構造とも一致しています。(注2)
陸上の管理が、そのまま海の開示指標に直結していく——その論理は、担当者が「自分の仕事と海のつながり」を説明するときにも使えます。
かつて海洋への影響を開示から除外できた理由のひとつは、「測定する手段がない」ことでした。
ですがその前提も、いまは崩れつつあります。
環境DNA(eDNA)技術は、水や土壌のサンプルを採取するだけで生態系の健全性や種の多様性をモニタリングすることを可能にしました。(注3)
衛星データを用いれば、自社のサプライチェーンが海洋保護区や生物多様性重要地域(KBA)とどの程度近接しているかを地図上で確認できます。
TNFDのLEAPアプローチでも、Ocean+ Data ViewerやAllen Coral Atlasといったオープンな空間データセットの活用が推奨されています。(注3)
担当者さまとしての実務上の含意は明確です。
「手段がないから除外する」という判断は、今後の開示審査において合理的な説明として認められにくくなっています。
外部の専門家との連携や、利用可能なデータツールを積極的に活用していくことが、開示の信頼性を支えていきます。
「海を経営テーマとして扱うのは一部の先進企業の話ではないか」と感じる方もいらっしゃるかもしれません。
ですが実際には、日本のさまざまな業種で、海洋インパクトを正面から扱う動きが始まっています。
たとえば、国内の金融機関の中には、自社の投融資先の自然資本リスクを評価するにあたり、海洋への依存と影響を筆頭課題として位置づけ、TNFDに準拠した開示をすでに実施しているところが出ています。(注4)
総合商社においても、水産関連事業を中心に、TNFDフレームワークと空間データを活用して養殖拠点周辺の海洋生態系への影響を定量的に把握・開示する事例が生まれています。(注4)
これらは「先進事例として学ぶ」というより、「同じ土俵がすでに設定されている」という意味で受け取るのがよいと思います。
金融機関や取引先がTNFDに準拠した開示を進めれば、その波及はサプライヤーや取引先にも及んでいきます。
最後に、意識しておきたいことをひとつお伝えします。
海のテーマは、ともすると清掃活動・寄付・啓発キャンペーンといったCSRの文脈で語られがちです。
もちろん、それらの活動に意味がないわけではありません。
しかしサステナビリティ担当者さまとしては、それだけで終わらせないことが重要です。
ダブルマテリアリティの考え方は、この点で明確な方向を示しています。企業が評価すべきは「海への影響(インパクトマテリアリティ)」だけでなく、「海の変化が自社財務に与える影響(財務マテリアリティ)」でもある、ということです。(注5)
言い換えると、海の問題は「社会へのよいことをするかどうか」という問いではなく、「自社の事業基盤のリスクと機会をどう評価するか」という問いでもあります。
この視点を社内の経営層やリスク管理部門と共有できるかどうか——そこが、担当者さまとしての腕の見せどころかもしれません。
4回にわたって見てきたことを最後に一言でまとめるならば、これに尽きるかもしれません。
海は、遠い自然ではない。
企業活動の足元に広がる巨大なインフラである。
そしてそのインフラは、制度・フレームワーク・測定技術の三つの側面で、いま急速に「可視化」されつつあります。
海を考えることは、単に環境問題を理解することではありません。 それは、自社の事業が依存している前提条件を、あらためて問い直すことでもあります。
御社の「当たり前」の中に、海はどのくらい見えているでしょうか。
この連載が、その問いを考える最初の一歩として少しでもお役に立てたなら幸いです。
今週もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、来週のブログで。
執筆担当:川上 佳子
海に関する議論は広いので、どこから情報を集めればよいか迷うこともあると思います。目的別に、最初の一歩として役立つ資料を整理しておきます。
■「自社と海の接点を地図にしたい」 → TNFDのLEAPアプローチとディスカッションペーパーが基本の地図になります。(注3)
■「海に関する目標設定の考え方を知りたい」 → SBTNのOcean targetsページが、科学的根拠に基づく目標の設計思想を整理しています。(注6)
■「ESRSの文脈で海がどう位置づけられているかを確認したい」 → ESRS E3の解説記事と、EFRAG(欧州財務報告諮問グループ)の原文が、開示要求の具体的な内容を確認するうえで参考になります。(注3)
■「日本の政策・産業界の動きを把握したい」 → 経団連の自然資本保全に関する政策提言(英語版)が、日本の文脈を整理する出発点になります。(注7)
もちろん、これらをすべて読み込む必要はありません。
「いま自社で問われていること」に最も近い資料から手をつけていただくのがよいかと思います。
出典:
注1:PPWR(包装材規則)と2026年8月の適用開始
対象箇所:「2026年8月から適用されるPPWR(包装材規則)への対応が問われます」に関する記述
出典①:EU Packaging and Packaging Waste Regulation (PPWR), Anthesis Group https://www.anthesisgroup.com/regulations/eu-packaging-packaging-waste-regulation-ppwr/
出典②:Comply, Save Money and Grow — how PPWR will revolutionize packaging in the EU and beyond, ERM https://www.erm.com/insights/comply-save-money-and-grow-how-ppwr-will-revolutionize-packaging-in-the-EU-and-beyond/
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注2:ESRS E2・E5・E3の連動構造
対象箇所:「ESRS E2(汚染)・E5(循環型経済)・E3(水および海洋資源)が相互に連動して設計されている」に関する記述
出典①:ESRS E3: Water & Marine Resources Reporting Standard, Anthesis Group https://www.anthesisgroup.com/insights/responding-to-esrs-e3/
出典②:CSRD, explained: How Europe’s reporting rules will change the way U.S. brands talk about (and design) plastic packaging, PCX Markets https://www.pcxmarkets.com/blog-posts/csrd-explained-how-europes-reporting-rules-will-change-the-way-u-s-brands-talk-about-and-design-plastic-packaging
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注3:eDNA・衛星データ・TNFDのLEAPアプローチにおける空間データ活用
対象箇所:「環境DNA(eDNA)技術」「衛星データ」「Ocean+ Data Viewer、Allen Coral Atlas」「TNFDのLEAPアプローチ」に関する記述
出典①:Discussion paper on measurement of ocean-related issues, TNFD(2025年1月) https://tnfd.global/wp-content/uploads/2025/01/Discussion-paper-on-measurement-of-ocean-related-issues.pdf
出典②:Holistic biodiversity monitoring: Combining bioacoustics and eDNA to deepen our understanding of marine life, Fugro(2026年) https://www.fugro.com/news/long-reads/2026/holistic-biodiversity-monitoring-combining-bioacoustics-and-edna-to-deepen-our-understanding-of-marine-life
出典③:Environmental DNA (eDNA): A Powerful Tool for Exploring Marine Ecosystems, Bureau of Ocean Energy Management (BOEM) https://www.boem.gov/newsroom/ocean-science-news/environmental-dna-edna-powerful-tool-exploring-marine-ecosystems
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注4:金融機関・総合商社によるTNFD準拠の海洋開示事例
対象箇所:「金融機関」「総合商社」の開示事例に関する記述
出典:TNFD Adopters, TNFD(採用組織リスト) https://tnfd.global/engage/tnfd-adopters-list/
補足:Disclosure Based on TNFD Recommendations, Mitsui & Co.(2025年12月) https://www.mitsui.com/jp/en/sustainability/pdf/tnfd_en_202512.pdf
(注:本文では固有名詞を出さず業種のみで示しているため、出典はTNFD採用リストを基本参照とし、補足として公開済みのTNFD報告書を示しています。)
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注5:ダブルマテリアリティ——インパクトマテリアリティと財務マテリアリティの双方の評価
対象箇所:「ダブルマテリアリティという考え方」「インパクトマテリアリティ」「財務マテリアリティ」に関する記述出典:CSRD Reporting: How to Comply, EcoVadis https://ecovadis.com/regulations/corporate-sustainability-reporting-directive-csrd/
補足:ESRS E3: Water & Marine Resources Reporting Standard, Anthesis Group https://www.anthesisgroup.com/insights/responding-to-esrs-e3/
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注6:SBTNの海洋ターゲット
対象箇所:「SBTNのOcean targetsページ」への参照
出典:Ocean targets, Science Based Targets Network https://sciencebasedtargetsnetwork.org/companies/take-action/set-targets/ocean-targets/
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注7:経団連の自然資本保全に関する政策提言
対象箇所:「経団連の自然資本保全に関する政策提言(英語版)」への参照
出典:Proposal for Integrating Biodiversity and Natural Capital Conservation with Sustainable Economic Growth, Keidanren(2025年) https://www.keidanren.or.jp/en/policy/2025/077.html
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。