サステナ開示をめぐる動向 / 人権 / 人的資本開示
前編では、TISFD初版が示した因果の反転——社会課題は企業の外ではなく、企業が依存する基盤であり、分散投資家のポートフォリオを揺るがすシステムレベルリスクである——を整理しました。
後編では、日本のプライム企業が実務として何を組み直すべきかを、3点として先にお伝えします。
そのあとで、なぜこの3点になるのか、TISFD初版の構造を踏まえて整理します。
日本の人的資本開示は「人を活かす」ストーリー——リスキリング、エンゲージメント、ダイバーシティ——から出発しました。
これは制度がそれを要求してきたところがあるため、企業側(人事部門や開示責任者様など)の責任ではありません。
ただし、有価証券報告書は投資家のための開示媒体です。
ポジティブな話だけが並ぶ開示は、投資家から見ると物足りないものになります。
多くの日本企業で賃金はいまだ、社内の整合性を守る「制度賃金」「秩序賃金」の段階にとどまっています。男女賃金格差開示を経てもなお、賃金の公正さの議論は十分に積み上がってきませんでした。
しかし今後は、賃金を「戦略の選択肢」として語る言葉を持てるかどうかが、分岐点になります。
役員報酬は総務やIRの所管で、人事や人的資本開示の文脈から切り離されている企業も多いはずです。経営陣の報酬設計を「人への投資の物語」として語れるかどうかは、TISFDだけでなく、2026年3月期からの有報新様式でも意図されている部分です。
ここからは、なぜこの3点になるのかを、TISFD初版の構造に照らして整理します。
※昨年秋の弊社セミナーで「2026年3月期の有報・人的資本開示新様式に対応する3つのハードル」としてお伝えした論点を、TISFD初版が別の角度から見せている、という整理にもなっています。
(弊社セミナーは以下よりご覧いただけます)
金融の世界で「リスク」とは、損失ではなく不確実性のことを指します。その不確実性が企業価値にプラスに作用する可能性が「機会」、マイナスに作用する可能性が「リスク」。つまり「機会とリスクは2つで1つ」であり、どちらか片方だけでは足りません。
TISFDが繰り返し使うIDRO——Impacts(影響)、Dependencies(依存)、Risks(リスク)、Opportunities(機会)——は、この文法を「人と社会」全体に拡張する設計になっています。
「企業は人や社会のどの基盤に依存しているか」「その依存が揺らいだとき何が起きるか」「人への投資が何を生むか」——この4点セットで関係を捉え直す、という枠組みです。
2026年3月期からの有報新様式は「企業戦略と関連付けた人材戦略と、それを踏まえた従業員給与等の決定方針等の開示」を求めます。これは結果として、社内完結型の「制度賃金」から、外部から見た公平性を意識する「Fair Wage(公正賃金)」への移行を後押しすることになります。
そしてその先に、TISFD初版が繰り返し例示する「Living Wage(生活賃金)」が控えています。世界で約10億人の労働者が、まともな生活を送れる賃金を得ていない——これが初版冒頭の問題提起です。
TISFDの最終版が2027年後半に予定されていることを踏まえると、賃金を語る言葉は段階的に豊かになっていくと想定されます。
TISFDが「人」と呼ぶ対象は、自社の従業員、バリューチェーンの労働者、消費者・エンドユーザー、地域社会の4つに広がります。経営陣もまた、この「人」の射程に含まれる存在です。
さらにTISFDのガバナンス開示は、経営トップの報酬とサステナビリティKPIの連動を、投資家対話の対象として明確に位置づけています。
役員報酬は総務やIRの所管、と切り分けてきた日本企業の組織構造は、TISFDの統合的な視点から見ると分断の象徴に見えかねません。
TISFDは、これらの分断を一つの文法でつなぎ直す枠組みを提示しています。直ちに新しい開示義務が生じるわけではありませんが、自社の開示再設計のきっかけとして読み込む価値は十分にあると考えます。
参考
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。