この記事の3つのポイント
3月23日に改訂された「人的資本可視化指針」を読んでいて、少し驚きました。
自然資本開示でおなじみの、あの「依存・影響・リスク・機会」という見方が、人的資本にもかなりはっきり入ってきていたのです。
改訂版と別紙(「戦略に焦点をあてた人的資本開示~投資家の期待に応えるための考え方の整理~」)では、経営戦略と人材戦略の関係を、「人的資本への依存・影響」と「人的資本関連のリスク・機会」という2つのステップで説明する、と明記されています。
しかも。
この構成は、たまたま似た言葉が使われたわけではありません。
別紙の第2部は「SSBJ基準に示された4つの要素」(ガバナンス、戦略、リスク管理、指標及び目標)を踏まえた開示を検討する企業に役立つよう記載されていると明記しています。
さらに、日本証券アナリスト協会のパブリックコメントでも、IFRS S1の付録Bに示されている「依存」と「影響」の関係を明示的に参照すべきとの意見が提出されていました。
つまり。
今回の改訂は、自然資本や気候の開示で用いられてきたIFRS S1系の思考様式を、人的資本にも適用し始めた文書だと見てよいでしょう。
もちろん、自然資本と人的資本は同じではありません。
自然資本でいう「依存」は、水や土壌、受粉、気候調整など、企業の外側にある生態系サービスへの依存です。TNFDのLEAPアプローチも、dependencies and impactsを評価し、その先にrisks and opportunitiesを捉える枠組みです。
一方、今回の人的資本改訂での「依存」は、改訂版の原文にこう書かれています。
「企業の経営戦略の実現は、将来の『あるべき組織・人材の姿』を踏まえて、必要となる人的資本を確保できるか否かに依存する」。
つまり、ここでの依存は、経営戦略が特定のスキル・人材ポートフォリオ・組織能力の確保に支えられている、という意味合いなのですね。
発想は近いものの、対象は自然ではなく「人」と「組織能力」。自然資本開示の言葉がそのまま移植されたというより、IFRS S1の思考様式(依存と影響の相互関係を明らかにし、そこからリスクと機会を導く)が、日本の人的資本開示の文脈に翻訳されて入ってきた、と理解するのがよさそうです。
ただし、ここは少し丁寧に見ておきましょう。
今回の改訂が企業に求めているのは、自然資本開示のように「依存」を単独の主要章として深掘りすることではありません。
中心はあくまで、経営戦略と人材戦略・人的資本投資の連動をどう説明するかです。
「依存・影響」という概念は、その連動をロジカルに示すための橋として使われているようです。
この改訂は、人的資本開示が一段深まったことを示しています。
これまでは、離職率や女性管理職比率、研修時間といったKPIを並べるだけでも、ある程度は「人的資本開示をしている」と見なされてきました。
ですが、今回改訂された「人的資本可視化指針」が示しているのは、今後はそれだけでは弱いということです。
自社の経営戦略は、どんな人材や組織能力に支えられているのか。
その依存が崩れたとき、どんなリスクがあるのか。
逆に、人的資本投資によってどんな機会が生まれるのか。
そこまでつながって初めて、投資家にとって意味のある開示になる、という方向性が明確になってきました。
改訂版の指針では、投資家が求めているのは「比較可能性のある指標」だけではなく、「自社固有の戦略に紐づく独自性のある指標」も含めたバランスのよい開示だと整理されています。
たとえば、従業員数や離職率、労務費総額は比較可能性のある指標として関心が高い一方、人材戦略が経営戦略にどう寄与するか、自社固有のベンチマークに照らした進捗などは、独自性のある開示として期待されているのです。
「みんなが出しているKPIを並べるだけ」では足りず、
かといって「自社流の物語だけ」で語るのでも足りない。
今回の改訂は、その両方を戦略という軸でつなぐことを求めています。
ISSBも現在、人的資本に関するrisks and opportunitiesの開示を2024–2026年ワークプランの一環として研究しており、2025年12月の会合でもプロジェクトのアップデートを受けた段階です。
人的資本を「良い話」だけで終わらせず、企業価値に影響する不確実性として捉える流れは、日本だけの話ではありません。
自然資本開示に触れてこられたサステナビリティ担当者さまほど、今回の改訂は見逃さないほうがよいと思います。
なぜなら、これは「人的資本の項目が増えた」という話ではなく、人的資本開示の見方そのものが変わり始めた、という話だからです。
IFRS S1を起点に、「依存と影響を明らかにし、そこからリスクと機会を導く」という思考の型が、気候・自然資本にとどまらず、人的資本にも広がりつつある。開示の「文法」が、テーマを超えて統一されようとしている、とも言えます。
自社の経営戦略は、どんな人材やスキルの確保に依存しているか。その依存が崩れたとき、何が起きるか。逆に、人への投資がうまく機能したとき、どんな機会につながるか。――この問いに答えられるかどうかが、今回の改訂が求めている開示の出発点です。
すでに自然資本で「依存」を考えたことのある方なら、その思考の筋道は、きっと遠いものではないと思います。
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本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、次回のブログで。
執筆担当:川上 佳子
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。