人的資本開示は、今、曲がり角を迎えようとしています。
女性管理職比率、男女賃金差異、研修時間、エンゲージメントスコア。ここ数年で、日本企業の人的資本開示には、かなり多くの指標が並ぶようになりました。
これは大きな前進です。
人的資本を「大切です」と語るだけでなく、測り、比較し、継続的に見ていく土台ができたからです。
そして今、次の問いも見え始めています。
その数字は、事業戦略とどうつながっているのか。
人材への投資は、将来の企業価値にどう効くのか。
人的資本のリスクは、どこにあり、どう管理されているのか。
6月10日、IFRS財団のデュープロセス監督委員会(DPOC)において示された、ISSBの人的資本プロジェクトの進捗は、この問いを改めて浮かび上がらせるものであったように思います。
日本の人的資本開示の第一の波は、人的資本可視化指針をきっかけに進みました。
経営戦略と人材戦略をつなぎ、KPIで可視化する。女性管理職比率、男女賃金差異、研修時間、エンゲージメント、離職率などを開示する。人的資本を、統合報告書や有価証券報告書の中で語る。
この流れは、決して小さな変化ではありませんでした。
これまで人事部門の中に閉じがちだった情報が、投資家や社会に向けて開かれた。企業価値との関係を意識して、人材施策を説明する企業も増えました。
ただし、第一の波には限界もありました。
KPIが増えるほど、開示は整って見えます。けれども、指標が並ぶだけでは、「なぜその指標が重要なのか」「その変化が事業にどう影響するのか」は、必ずしも伝わりません。
人的資本開示は、KPI一覧表の段階から、次の段階へ進もうとしています。
第二の波では、人的資本を「よい取り組み」だけで語ることが難しくなってきました。
人材育成、挑戦機会、ダイバーシティ、エンゲージメント。これらはもちろん重要です。しかし、人的資本にはリスクもあります。
人材不足、離職、過重労働、健康阻害、安全衛生、ハラスメント、賃金の公平性。こうした論点を避けたまま、人的資本を企業価値の源泉として語ることは、少しずつ難しくなっています。
TISFDの議論が示しているのも、まさにこの点です。
企業は、人や社会を外部環境として見ているだけでは済みません。企業活動そのものが、人や社会に依存し、同時に影響を与えています。その関係が、いずれ企業のリスクや機会として跳ね返ってくる。
人的資本開示は、「人を大切にしています」という説明から、「人に関するリスクと機会を、経営としてどう把握し、どう対応しているか」を語る段階に入りつつあります。
そして、今回。
ISSBの人的資本プロジェクトは、第三の波を示しているように見えます。
重要なのは、人的資本の新基準がすぐに出る、という話ではありません。
現時点では、ISSBは投資家ニーズ、作成者の実務負担、用語や定義、保証可能性、国・地域差、SASB基準などとの接続を調査している段階です。
それでも、今回の動きは見逃せません。
ISSBが見ているのは、人的資本を投資家が企業価値を判断するための情報として扱えるか、という点だからです。
自社従業員だけでなく、バリューチェーン上の労働者も含めて考える。離職率や研修時間だけでなく、安全衛生、報酬、ウェルビーイング、エンゲージメントなどを見る。そして、それらが事業戦略や将来キャッシュフローにどう影響するかを説明する。
これは、人的資本開示の範囲が広がるというだけの話ではありません。企業が「どこまでを自社の経営範囲として見るのか」が問われる、ということです。
以前、ハイネケンのTotal Workforce開示を取り上げた際にも見たように、対象範囲が広がれば、責任範囲も広がります。協力会社、委託先、サプライチェーン上の労働者まで含めて考えるなら、人的資本開示はもはや人事情報の開示ではありません。
事業モデル、コスト構造、リスク管理の話になります。
とはいえ、今、必要なのは開示項目を急いで増やすことではありません。
自社の人的資本KPIの定義は明確か。人材投資と企業価値のつながりを説明できるか。自社従業員以外の労働力を、どこまで経営上の論点として見ているか。
まずは、ここからではないでしょうか。
人的資本開示の第三の波は、もう始まっています。
それは、新しい基準名を追いかけることではなく、「人」を企業価値の言葉で語る準備を始めることなのだと思います。
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今週もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、来週のブログで。
執筆担当:川上 佳子
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。