TNFD / 勉強用(初学者様向け) / 水資源 / 自然資本
この記事の3つのポイント
第1回では海が「遠い問題」とされてきた三層構造を、第2回では海が担う四つのインフラ機能を整理しました。
では、なぜ「いま」海が急に企業の議論に浮上しているのでしょうか。
私は、ここ数年で起きた3つの転換点にその理由があると考えています。
第2回の末尾で、ESRS(欧州サステナビリティ報告基準)において「水(Water)」が「水および海洋資源(Water and Marine Resources)」へと拡張されたことに触れました。ESRS E3です。
今回はその意味を、もう少し掘り下げます。
注目すべきは、名称が変わったことそのものよりも、「除外のハードルが根本的に上がった」という構造の変化です。
CSRDの根底にあるダブルマテリアリティの考え方のもとでは、「海は自社には関係ない」と判断してE3を開示対象から外すこと自体は可能です。しかし、その場合は除外の理由を詳細かつ合理的に説明しなければなりません。
かつてのように「データがないから」という一言で済ませる時代は終わりました。第1回で見た「制度の設計」という壁が、ここで崩れ始めています。
さらに見落とせないのが、ESRS E3は単独で機能するわけではないという点です。
汚染を扱うE2、循環型経済を扱うE5と相互に連動して設計されており、この三つが組み合わさることで、企業が海洋への環境負荷を「どこかで除外する」ことが構造的に難しくなっています。
排水はE2、包装材はE5、それらが最終的にたどり着く海はE3。——逃げ道が、制度の側からふさがれつつあるのです。
転換点①が「何を報告するか」の変化だとすれば、転換点②は「何を作ってよいか」の変化です。
PPWR(包装材および包装廃棄物規則)は、EU官報で公布され、2026年8月から適用が始まる規制です。 CSRDが開示の枠組みであるのに対して、PPWRは包装材の設計・素材・廃棄のあり方そのものに介入します。
海洋に流出するゴミの大部分は使い捨てプラスチックや漁具だと言われています。PPWRはその発生源を上流で断とうとする試みであり、EU市場で製品を販売するすべての企業——日本企業も含めて——に対応が求められます。
この連載ではPPWRの詳細には立ち入りません。しかし、「開示の義務化」と「物理的な規制」が同時に動いているという事実は、重要な変化の兆候です。海の問題が「報告書の中だけの話」でなくなっていることの、象徴的な証左と言えます。
三つ目の転換点は、フレームワークの進化です。ここでは二段階に分けて見ていきます。
まず、開示の枠組み。
TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)は、企業が自然資本——陸・淡水・海・大気の4つの領域——に対する依存と影響を開示するための枠組みです。
2025年から2026年にかけて、TNFDは漁業・海上輸送・クルーズラインなどを対象とした海洋セクターガイダンスを公表し、さらにセクター横断的な海洋課題の測定に関するディスカッションペーパーも公開しています。
示されている指標には、海洋利用の改変の程度、廃水の排出量、プラスチック汚染の量、高リスク海洋資源の調達量などが含まれます。これにより、農業由来の富栄養化、消費財メーカーのマイクロプラスチック流出、海運業のバラスト水排出など——「直接は海と関係がない」と考えていたセクターの影響経路が、可視化され始めました。
次に、目標の枠組み。
開示の枠組みにとどまらず、企業が設定する目標の「科学的妥当性」を担保する動きも進んでいます。
2025年3月、SBTN(科学的根拠に基づく目標ネットワーク)は、史上初の「海洋に関する科学的根拠に基づく目標(Ocean SBTs)」を正式にローンチしました。³ 第一弾は水産物セクターを対象とし、過剰搾取の回避・重要生息地の保護・絶滅危惧種へのリスク削減を柱としています。さらに2026年半ばにかけて、対象を海上輸送・沿岸ツーリズム・洋上風力発電などへ大幅に拡張する計画が公表されています。
この二段階の動きが意味するのは、議論の次元が変わったということです。
「海について何を開示すればよいか」という問いから、「海に対してどんな目標を持ち、それをどう証明するか」という問いへ——企業に求められる解像度が、一段上がっています。
こうした動きを「欧州の話」として受け取る方もいるかもしれません。しかし、日本企業はすでにこの流れの中にいます。
TNFDのフレームワークに賛同を表明した企業数でいえば、日本は世界で最も多くの採用実績を持つグループのひとつです。 金融機関や総合商社を中心に、投融資先の自然資本リスクとして「海洋」を正面から位置づけ、TNFDに準拠した開示を始めているケースも出てきています。
ただ、賛同していることと、開示の中身に「海」が入っていることは、別の問題です。
自社の統合報告書やサステナビリティレポートの中で、「海」は何回登場しているでしょうか。物流の前提として、調達の経路として、排水の行き先として——海の存在が、自社の開示にどこまで織り込まれているか。この問いは、一度立ち止まって確認する価値があると思います。
また、経団連は2025年、生物多様性・自然資本の保全を「新たな成長の源泉」と位置づける政策提言を発表しました。そこでは気候変動対策・サーキュラーエコノミー・ネイチャーポジティブを個別課題ではなく「統合的アプローチ」として推進する方針が打ち出されています。これは言い換えれば、気候・循環・自然を別々のチェックリストとしてではなく、ひとつながりの物語として語ることが求められているということでもあります。
CSRDを「欧州の企業向けの話」として距離を置いても、日本のサプライヤーや投資家を通じて、同様の開示要求は波及してきます。3つの転換点は、「対岸の火事」とは言えません。
3つの転換点を振り返ると、共通していることがあります。
かつて「海は企業から遠い」とされていた理由は、文化的思い込み・制度の設計・法的空白という構造的な要因にありました。しかし、制度が変わり、フレームワークが登場し、目標設定の基準が整いつつあることで、その構造が一つひとつ解体されています。
「いま海なのか」という問いへの答えは、「その解体がちょうど重なるタイミングが、いまだから」ということかもしれません。
では、これを踏まえて担当者として何から手をつければいいのか。
次回・最終回では、海のテーマに初めて向き合う担当者の方に向けて、「自社と海の接点の探し方」と「最初に見ておきたい資料」を整理します。
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本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、次回のブログで。
執筆担当:川上 佳子
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。