TNFD / サステナ開示をめぐる動向 / 気候変動 / 開示優良企業
この記事の3つのポイント
前回は、TNFDのLEAPアプローチにおけるEvaluate以降に「絞り込みの透明性」が問われること、そしてSSBJ確定基準(IFRS S1/S2をベース)が、サステナビリティのリスク・機会について「つながり(connectivity)が理解できる開示」を求めていることを確認しました。
今回は、その透明性を実際の開示設計に落とし込んだ事例を、業種を超えて読み解きます。
前回、汎用ツールによるスクリーニングは「入口」であり、本当の判断はその先にあると述べました。
ですが現実には、スクリーニングを終えた後、多くの企業が共通の壁にぶつかります。
それは、
「結果は出た。でも、これをどう経営判断につなげるのか」
という問いです。
この壁の本質は、情報の「抽象度」にあります。
ENCOREのようなツールが示すのは、産業分類ごとの依存・インパクトの傾向値です。
もちろん、それは全社的な優先順位づけには有効なのですが…現場が「自分ごと」として動くには、もう一段の翻訳が必要です。
「あなたの拠点が立地する流域では、このリスクが顕在化する可能性がある。それに対して、現在の設備や体制は十分か」──この水準まで問いを具体化して初めて、現場は実態を調査し、経営会議に上げるべき課題として認識します。
この「問いの翻訳」を、食品飲料とはまったく異なる事業構造で体現しているのが、NECさん(以下、NEC)です。
NECは2023年に国内IT業界で初めてTNFDレポートを公開し、以来毎年改訂を重ねています。
2025年8月に発行した第3版では、詳細分析の対象拠点をサプライチェーン上流を含む約2,000拠点にまで拡大しました。
ここで注目したいのは、AI活用の話の前にある設計思想です。
NECのサプライチェーンサステナビリティ経営統括部の岡野豊ディレクターは、グローバルな汎用ツールだけでは、拠点ごとの水インフラなど“ローカル情報”を踏まえたリスク把握が難しいという課題意識を示しています。
そこでNECは、拠点別の条件を織り込んだ情報を整え、「その拠点にとって具体的に何がリスクなのか」を特定しやすい形に“問い”を落とし込む方向へ舵を切りました。
たとえば、「あなたの事業所がある地域では、特定の時期に渇水リスクがある。事業継続に十分な設備はあるか」と具体的に問えば、現場は実態を調査し、必要な設備投資を訴えてくる。問いの抽象度が下がることで、現場の応答が変わるのです。
(ご参考記事) 日経ESG「NEC、TNFDの取り組みにAIを幅広く活用」(2026年2月26日)
またNECは、拠点ごとのローカル情報の分析や資料作成にAIを活用し、人手では膨大になりがちな調査工数の圧縮を進めています。
リスクの輪郭が早い段階で具体化できれば、設備投資の要否も議論しやすくなり、結果として関係者との信頼関係の構築にもつながる——NECはそうした実務感を示しています。
ここで強調したいのは、NECの事例の本質はAI技術にあるのではなく、「問いの設計」にあるということです。
拠点数が少なくとも、高度なツールがなくても、この工程設計は始められます。 対象拠点の水インフラの状況、季節変動、地域の管理体制、周辺ステークホルダーとの関係性──こうした文脈を組み込んで問いを立て直すことで、現場の応答は変わります。
製造業、IT・通信、素材産業を問わず、拠点を持つあらゆる企業で同じ課題が発生します。 サプライチェーンが複雑で拠点数が多い企業ほど、汎用ツールの結果をそのまま経営会議に持ち込んでも「うちのどこが本当に問題なのか」という問いに答えられません。
ENCOREからEvaluateへの接続は、ツールの問題ではなく、問いの翻訳の問題だと私は考えます。
次に、「なぜ統合開示が効くのか」というお話をします。
TCFDとTNFDを別々に開示すると、「気候は外部ショック」「自然は環境テーマ」という切り分けが起きやすいのですが、統合すれば、これらは同じリスクテーブルに並びます。
水不足は、自然資本の劣化であり、気候変動の影響でもある。 依存がまずあり、そこに気候が重なる。 この因果順序が見えると、自然はサステナビリティだけに閉じた項目ではなく、事業基盤そのものになります。
「統合する」とは、概念的に「つながりを意識する」ということではありません。
気候と自然が同じ列に並ぶリスクマトリクスを1つ作るということです。
この構造があるだけで、なぜ特定のリスクが優先されたのかが明示的になる。絞り込みの根拠が、表の設計自体に組み込まれるのです。
ここからは、統合開示の設計を具体的に読み解いていきます。 なお、重要なのは規模でも業種でもなく、選定プロセスの構造です。
サントリーホールディングス(以下、サントリーHD)は、TNFD提言・TCFD提言に基づく統合開示の中で、自然関連の優先拠点の特定プロセスを具体的に記述しています。
“人と自然と響きあう”環境経営 ~TNFD提言・TCFD提言に基づく統合開示~
https://www.suntory.co.jp/sustainability/env_tcfd/
生産拠点79拠点を対象に、Aqueduct 4.0やWWF Water Risk Filterの複数指標で流域の水資源量と水質を評価。 さらに、拠点の水使用量・排水汚染物質を正規化し、「自然状態への依存度」と「拠点操業の影響度」の両方でリスクが高い拠点を特定するプロセスを開示しています。 その結果として、飲料事業で9拠点、酒類事業で4拠点という具体的な数値が示されています。
主要8原料×調達国の45パターンについて環境・人権インパクトのヒートマップを作成し、「コーヒー豆のブラジル調達がリスクが最も高い」という結論と、それに対する既存の調達戦略の妥当性確認まで一貫して記述しています。
ポイントは、スクリーニング全体を見せていることです。79拠点を対象にし、複数の評価指標でふるいにかけ、結果として13拠点に絞り込んだ——この「79→13」というプロセスが可視化されているからこそ、深掘りが限られた拠点であっても信頼性が成立します。
逆に、選定プロセスが不透明なまま「成果が出た拠点」だけを並べれば、どれだけ丁寧に書いても、読者の疑問は消えません。
もうひとつ、異なる角度からの参考事例を紹介します。
2025年6月に環境省が発行した「環境課題の統合的取組と情報開示に係る手引き」では、キリンホールディングス(以下、キリンHD)とリコーの手法が好事例として紹介されています。
キリングループ 環境報告書 2025
両社に共通するのは、特定したリスク・機会項目のそれぞれに対して、関連する環境課題(気候・自然/生物・資源)を紐づけて開示している点です。 つまり、1つのリスク項目が「気候の話なのか、自然の話なのか、両方なのか」を読者が即座に判別できる構造になっています。
キリンHDはさらに、ISSB・TNFD提言に基づいた「統合的な環境経営情報開示」として、IFRS S1号・S2号も参照した開示構成を取っており、SSBJ対応を見据えた設計といえます。
前回指摘した「絞り込み基準の混在」に対して、この「リスク項目×環境課題のマトリクス」構造は直接的な解法を示しています。サントリーHDが示す「選定プロセスの透明性」とは異なるアプローチですが、リスクテーブルを1つにするという統合開示の設計原則は共通です。
依存を直視するとは、「最も不都合な拠点を」「必ずさらす」ことではありません。
選ばなかった場所の存在を示せるか。
絞り込みの基準を説明できるか。
リスク軸と機会軸の優先順位を明示できるか。
ここに透明性があれば、開示は一段階深くなります。
結局のところ、投資家やステークホルダーが知りたいのは「御社は自然リスクをどう管理しているか」であって、「御社の最も脆弱な拠点はどこか」ではないのです。
管理の設計思想が見えれば、個別拠点の詳細は段階的に深めていけばよいのではないでしょうか。
読者であるサステナビリティ担当者さまが今年(2026年)、TNFD開示に関わっておられるなら、まず試していただきたいことが3つあります。
ENCOREヒートマップの深掘り対象を選んだ際の社内メモを引っ張り出してください。
選定理由は一つの論理で書かれていますか。
「リスクが高いから」と「成果を示せるから」が混在していませんか。
混在しているなら、それを2
列に分けて書き直すだけで良いのです。
リスク軸の選定と機会軸の選定が明示的に区別されるだけで、読者から見た透明性は格段に上がります。
環境省の手引きが紹介するキリン・リコー型のマトリクスを参考に、既存のTCFDリスク一覧に「自然資本」「資源循環」との関連列を足してみてください。
重なる場所に、御社の本質的な依存が見えるはずです。
これがSSBJが求める「リスク・機会間のつながりが理解できる開示」の第一歩になります。
環境省の手引き冒頭には、統合的アプローチの推奨が明記されています。SSBJ確定基準も、リスク・機会間のつながりの開示を要求しています。 次の経営会議資料に、この外部根拠を添えてください。
具体的には、環境省手引きp.2の対象フレームワークの図表を1枚添付し、「当社の現在の開示はこのフェーズにある」と示すだけでも、議論の起点になります。
(社内説得において最も効くのが「自社の判断」ではなく「外部の要請」であるという現象は、しばしば起きることですので…)
TNFDは、企業を受け身の立場のままにはしておきません。
そして問いかけます——あなたは、何に支えられているのか、と。
これは精神論ではなく、設計の問題です。
気候と自然を分けて語ることは、本当に効率的なのか。SSBJが求める「つながりが理解できる開示」を、分断したまま実現できるのか。
NECが示したのは、問いの抽象度を下げれば現場は動くということ。
サントリーHDが示したのは、選定プロセスを見せれば信頼は成り立つということ。
キリンHDが示したのは、リスクテーブルを1つにすれば因果関係が可視化されるということ。
その問いを社内に持ち込めるかどうか。そこから、依存の直視は始まるように思います。
ーーー
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、次回のブログで。
執筆担当:川上 佳子
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。