この記事の3つのポイント
冬も終盤に差し掛かった2月の夕暮れ。都内の電車内で、イワタニの大きな箱を抱えた方を見かけました。
中身は、今SNSや防災コミュニティで話題の「カセットガスストーブ」。
「もうすぐ春なのに、なぜ今?」
そう思う方もいるかもしれません。しかし、サステナビリティコンサルタントである私の目には、その光景が「新しい時代の賢い備え方」を象徴しているように映りました。
そしてこの冬、同じ構造を持つもう一つの出来事が話題になっています。
フィギュアスケーターの羽生結弦さんが、アイスショー「notte stellata 2026」の公式グッズとして発表したラインナップです。
持続可能な社会を考えるうえで、今最も注目されているキーワードの一つが「エネルギー・レジリエンス(回復力・強靭性)」です。
気候変動による予期せぬ寒波や、地震・台風などの自然災害。これまでは「スイッチを押せば電気がくる」のが当たり前でしたが、その前提が揺らいでいます。
カセットガスストーブが支持を集めている最大の理由は、電源コードが不要で、インフラに依存しない暖房手段であるという点にあります。
この「インフラ依存からの分散」という課題は、個人の暮らしに限った話ではありません。
企業のBCP(事業継続計画)においても、電力一極依存からの脱却は重要テーマです。TCFDの物理的リスク開示でも、自社の事業拠点やサプライチェーンがエネルギー途絶にどれだけ耐えられるかは、投資家から問われるポイントの一つになっています。
サステナビリティにおいて、一番もったいないのは「使い捨て」や「死蔵」です。
「いざという時のための備蓄品」は、結局使わずに期限が切れたり、しまい込まれたりしがち。これは家庭でも、企業の防災倉庫でも同じです。
ここで注目したいのが、「フェーズフリー」という考え方。
日常時(Phase 1)にも非日常時(Phase 2)にも価値を発揮する設計のことです。
カセットガスストーブは、この考え方を体現しています。
日常ではキャンプや釣り、冷え込む書斎のスポット暖房として活躍し、非日常では停電や災害時に家族の命を守る暖房器具になる。日常的に使い勝手がいいからこそ、「長く、大切に使い続ける」という循環が生まれます。
このフェーズフリーを、最もエレガントに実践しているのは、もしかすると企業ではなくアスリートかもしれません。
羽生結弦さんが座長を務める「notte stellata 2026」は、東日本大震災をきっかけに”希望の夜空”をテーマとして2023年に始まったアイスショーです。2026年公演は、震災から15年の節目にあたります。
これは広く知られている話だと思いますが――羽生さん自身、2011年に宮城県仙台市で被災し、家族とともに避難所へ向かった経験をお持ちです。
今回発表された公式グッズのラインナップが、まさにフェーズフリーそのものでした。
懐中電灯ペンライト、リュック、フリース、撥水ポンチョ、カラビナ付きホイッスル、簡易防災セット付きポーチ、ブランケット——その大半が防災グッズとして活用できるアイテムです。
特にペンライトは象徴的です。公演中は演出に合わせて自動的にカラーが変化し、客席の一体感を生み出す応援グッズ。そして公演後は「懐中電灯としてお役立てください」とアナウンスされています。
ファン体験(応援)→ 日常使い(懐中電灯)→ 非日常の備え(防災)。
この3段階の価値設計に、SNSでは「ただの記念グッズじゃなくて、ちゃんと意味がある」「防災を忘れないためのグッズ構成が素晴らしい」と称賛が集まりました。
被災経験のある方からも「避難した時も寒くて車のエンジンをかけっぱなしでした。
暖を取れるブランケットは本当に助かります」という声も寄せられているようです。
ここで、サステナビリティ担当者の皆さまに質問です。
御社の周年記念品、社員への贈呈品、株主優待——そこに「フェーズフリー」の発想は入っているでしょうか?
羽生さんがペンライト→懐中電灯でやっていることを、企業様はきっと、もっと大きなスケールで実践できると思います。
従来型の企業防災は、社員に防災セットを配って終わり、というケースが少なくありません。しかし、配られた防災セットがデスクの引き出しの奥で眠っているとしたら、それは「死蔵」であり、投資の無駄です。
フェーズフリーの発想で再設計するとどうなるか。
ちょっと考えてみました。
福利厚生の転換。 会社が支給する記念品を、日常のPC作業でも災害時でも役立つ「高性能モバイルバッテリー」や「マルチツール」に切り替える。日常使いしているからこそ、いざという時にも手元にある。羽生さんのペンライトと同じ構造です。
研修の再定義。 堅苦しい避難訓練の代わりに、キャンプスキルを学ぶワークショップを開催する。火起こし、応急処置、テント設営——これらはアウトドアの楽しみであると同時に、災害時の生存スキルそのものです。チームビルディング、ウェルビーイング向上、そして生存能力の強化を同時に実現できます。
こうした取り組みは、単なる福利厚生の改善にとどまりません。
統合報告書やサステナビリティレポートにおける重要なストーリーになり得ます。
たとえば:
人的資本の文脈。 従業員のレジリエンス向上施策として位置づけられます。人的資本開示が求められる今、「社員一人ひとりの対応力を高める投資」は、研修費やウェルビーイング施策と並ぶ具体的な取り組み事例になります。
BCPの文脈。 従業員個人の備えが充実していれば、災害発生時に「まず自分と家族の安全を確保する」フェーズが短縮され、企業としての初動対応が早まります。個人のレジリエンスが、組織のレジリエンスの土台になるというロジックです。
地域共生の文脈。 従業員が家庭で備えることは、その地域全体の防災力底上げにもつながります。これは「S(社会)」の観点から、企業の社会的ライセンスを支える活動とも言えます。
▽IR担当者さま向けミニ解説:フェーズフリーは統合報告でどう書くと効くか
フェーズフリーの発想は、防災施策として紹介するだけでは少しもったいないかもしれません。統合報告書では、「企業レジリエンスを高める人的資本投資」として位置づけると、より説得力を持ちます。
たとえば、社員向けに配布するモバイルバッテリーやライトを「防災備蓄」ではなく「日常業務と非常時の双方で機能するツール」として設計すれば、BCP(事業継続)とウェルビーイングの両方に貢献する施策として説明できます。
さらに、「社員個人の備えが地域の防災力を高める」という視点を加えると、人的資本・リスク管理・地域共生という複数のESGテーマを一つのストーリーでつなぐことができます。
小さな備えでも、設計思想を言語化すれば、企業のレジリエンス戦略として語ることができるのです。
電車でカセットガスストーブを抱えていたあのかたは、もしかすると非常に戦略的な消費者かもしれません。
冬の終わりは、多くの店舗で冬物家電がセールにかかる時期です。
喉元を過ぎれば熱さを忘れるのが人間ですが、「冬の寒さを忘れる前に、次の冬への備えを完了させる」という行動は、リスク管理において極めて合理的です。
パニック買いを防ぎ、物流への負荷を減らす、スマートな選択とも言えます。
これは企業にも、そのまま当てはまります。
規制が本格化する前に対応を始める企業と、締切直前に慌てる企業——開示基準対応ややSBTi目標設定の現場で、今まさにこの二極化が起きています。
「季節外れ」に見える先行投資こそが、実は最もサステナブルな戦略なのです。
かつてストーブは、大きな灯油缶を抱えて準備する重労働でした。
それが今、コンビニで買えるカセットガス1本で、誰でもどこでも「安心」を持ち運べるようになりました。
羽生さんのペンライトは、公演の感動を灯しながら、同時に「もしもの時の光」にもなる。
個人として「自分の暮らしを自分で守る」ための道具を揃えること。
そして企業として、社員のレジリエンスを「コスト」ではなく「価値ある投資」として再設計すること。
この二つは、同じ「フェーズフリー」という思想でつながっています。
企業のレジリエンスは、大きな設備投資や難しい制度だけで生まれるものではありません。
日常の暮らしや働き方の中に、少しずつ「備え」を織り込んでいくこと。フェーズフリーという発想は、その小さな工夫を、企業の持続可能性につなげてくれるヒントなのかもしれません。
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今週もお読みいただき、ありがとうございました。
それでは、また来週のブログで。
執筆担当:川上 佳子
参考:羽生結弦「notte stellata 2026」公式グッズ情報(ねとらぼ)
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。