この記事の3つのポイント
2026年2月、MSCIが「Human Rights Impacts and Related Financial Risks」をテーマとするセミナーを開催しました。
その中で、ある印象的な数字が示されました。
国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)の下で各国が提出する国別決定貢献(NDC)について、「公正な移行(Just Transition)」に言及する国の割合が、2024年の38%から2025年には72%へと、ほぼ倍増したというのです。
昨年まで一部の国の先進的な表現にとどまっていた概念が、気候政策の主流語彙へと押し上げられつつある——この変化は、単なる言葉の流行ではなく、政策と市場の接点で起きている構造変化の兆しのようにも見えます。
では、この動きは日本企業の2026年のTCFD開示と、どのようにつながってくるのでしょうか。
「公正な移行(Just Transition)」という言葉は、もともと産業転換に伴う労働者支援の議論を起点に発展してきた概念と整理されます。
炭鉱の閉鎖や産業再編の局面で、労働者や地域社会が一方的な負担を強いられないようにする、という考え方です。
それが気候変動の文脈では、より広い意味を帯びるようになりました。
脱炭素の移行プロセスそのものが、新たな人権リスクや社会的な不公平を生んではならないという問題意識です。
たとえば、
- 再エネ拡大に必要な重要鉱物は、どのような労働環境で採掘されているのか
- 太陽光パネルのサプライチェーンに強制労働リスクはないのか
ー エネルギー価格の高騰は、誰にどのような負担をもたらしているのか
といった論点がそこに含まれます。
「公正な移行」とは、気候対策のスピードと公平性を同時に問うレンズ、と言うことができるかもしれません。
セミナーでは、MSCI ACWI指数構成銘柄の70%超が、ビジネスと人権に関する何らかの法規制の対象になっているという整理も示されました(10年前は42%)。
欧州を中心とした人権デューデリジェンスの義務化や、各国の現代奴隷制対応など、企業に対して「人権を管理プロセスとして説明すること」を求める潮流が強まっています。
NDCにおけるジャスト・トランジション言及の増加は、こうした動きが政府レベルでも標準化しつつあることを示しているようにも見えます。
同セミナーでCalPERSの登壇者は、人的資本が適切に管理されない場合、収益やバリュエーション、投資リターンに悪影響が及ぶ可能性があると述べました。
それは倫理的な問題であると同時に、投資上のリスク管理の問題でもある、という整理でした。
またAmundiの登壇者は、規制の強化に加え、この領域が成熟し、ツールやガイダンスが整備されてきたこと、さらにリスクが実際に顕在化する事例が増えてきたことが、関心の拡大を後押ししていると説明しました。
ここで見えてくるのは、価値観の議論というよりも、リスク管理の枠組みが拡張しているという事実です。
セミナーでは、「起きた後に対応する(reactive)」だけではなく、「起きる前に予防する(preventative)」層に価値があるという整理も示されました。
MSCIのケーススタディとしては、
- 先住民権をめぐる対立が鉱山開発停止につながった事例
- 規制違反による巨額制裁金の事例
- 強制労働問題を受けた輸入措置と是正投資の事例
などが紹介されました。
いずれも、人権を含む社会リスクの管理不備が、結果として財務面で顕在化したケースです。
加えて、AI関連インシデントが2024年に前年比56.4%増加したというデータも示されました。
脱炭素とデジタル化が同時に進むなかで、社会リスクの複雑性が増していることがうかがえます。
ここで一つ整理が必要です。
TCFDにおける「移行リスク」は、規制・技術・市場などの変化に伴う財務影響を指す分類概念です。
一方で「公正な移行(Just Transition)」は、移行の公平性や人への影響を問う視点です。
本来、この二つは出自の異なる概念です。
ただ近年は、移行の進め方が不公正であること自体が、社会的反発や訴訟、供給遮断、操業停止などを通じて移行計画を揺さぶり、結果として移行リスクを増幅させる可能性が現実味を帯びています。
つまり、「公正な移行(Just Transition)」は移行リスクとは別概念でありながら、移行リスクを左右する要因になりつつある——という関係にあります。
従来のTCFD関連開示では、移行リスクが「カーボンプライシングの影響」や「低炭素技術への移行コスト」といった形で語られる場面が多く見られます。
これは移行リスクとして自然な整理ですし、実務としても重要な論点です。
ただ、その背後にある「移行の質」まで開示の視野に入れる企業は、まだ多くない印象があります。
2026年の開示では、たとえば次のような視点がより重要になるかもしれません。
- 気候移行計画が、雇用やサプライヤー、地域コミュニティにどのような影響を与えるか
- サプライチェーン上の人権リスクを、地理的コンテクストも含めてどのように把握しているか
- 問題発生後の対応だけでなく、予防的プロセスをどのように設計しているか
MSCIの説明では、自社サプライチェーンにおける強制労働リスクを開示している企業は、ACWI(MSCI All Country World Index)構成銘柄のうち3%にとどまるという示唆もありました。
「やっていない」よりも、「見えていない」ことが課題になる局面に入ってきたと言えそうです。
NDCで、「公正な移行(Just Transition)」に言及する国が38%から72%へと増えたという事実は、気候政策が「どれだけ削減するか」だけでなく、「どのように移行するか」を問い始めたことを示しているように見えます。
脱炭素のスピードは重要です。
ですが、その移行が社会的な摩擦や不公平を生み、結果として止まってしまうのであれば、本来の目的は達成できません。
2026年のTCFD開示に問われているのは、目標の数値だけではなく、移行の「質」をどこまで説明できているかという点なのではないでしょうか。
「公正な移行(Just Transition)」は、脱炭素の“忘れ物”を思い出させる概念として、少しずつ存在感を強めています。
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本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、次回のブログで。
執筆担当:川上 佳子
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。