この記事の3つのポイント
2026年、有価証券報告書に「男女間賃金格差が縮小しました」と書かれる企業が増えるかもしれません。でも、それは必ずしもポジティブな話ではないかもしれません。
定年を迎えたシニア男性が再雇用で賃金を大きく下げて非正規層に加わる。その結果として男性の平均賃金が引き下げられ、見かけ上の男女格差が縮まる——この現象は、2007年以来、日本企業の統計に静かに織り込まれてきました。そして2026年、企業はこの「数字の歪み」について、投資家に対してはじめて正直に説明することを求められます。
その背景には、ほぼ同時期に施行される二つのルール改正があります。厚生労働省による「同一労働同一賃金ガイドライン」の改定と、金融庁が推進する有価証券報告書の人的資本開示の強化です。片方は従業員を守るための「守りのルール」、もう片方は投資家に向けた「攻めの開示」。一見別々の話に見えて、この二つは「企業の賃金に対する考え方の透明性」という一点で深く絡み合っています。
2020年のパートタイム・有期雇用労働法の施行から5年。この間に蓄積された最高裁判決のエッセンスを、公式の指針として明文化したのが今回のガイドライン改定です(2025年11月公表、2026年内施行予定)。
これまで企業が「ガイドラインに記載がないから」と曖昧にしてきた項目が、一気に整理されました。退職金については、メトロコマース事件(2020年)を踏まえ、長年にわたり貢献した非正規社員に一切支給しないケースは不合理と判断される可能性があると明記。家族手当・住宅手当については、日本郵便事件(2020年)を根拠に、扶養家族の有無や住宅費の負担は雇用形態に関係しないとして、差を設けることの正当性がより厳しく問われるようになりました。病気休職についても、契約更新が繰り返されている有期雇用者には正社員と同様の扱いを求める方向性が示されています。
これらは「新しいルール」ではありません。最高裁がすでに決着をつけた話を、遅まきながら公式化したにすぎない。だからこそ重みがあります。
もう一点、実務上のインパクトが大きいのが「説明義務」の強化です。企業が待遇差の理由を説明しなかった場合、そのこと自体が「待遇差は不合理だ」と判断される材料になり得る。正社員の給与を下げて格差を解消する対応は「望ましくない」と明記され、基本は非正規の底上げを求める立場が鮮明になっています。
これからは「その手当は、そもそも何のために払っているのか?」という支給目的に立ち返らなければなりません。目的が非正規社員にも等しく当てはまるなら、差を設ける合理的な理由を丁寧に説明できなければいけない。「なんとなく正社員だから」は、もはや通用しない時代になります。
同じ2026年、金融庁側でも大きな変化が起きます。2026年3月期決算の有価証券報告書から、人的資本に関する開示ルールが大幅に強化されるのです。
これまでの開示は、言わば「数字を並べる」形式でした。平均給与はいくらか、従業員は何人いるか。それが今後は、「経営戦略と人材投資がどう繋がっているか」を語る形式へと転換します。具体的には、どのような事業戦略を描き、そのためにどんな人材に、どう報いるのかという「価値創造の物語」の記載が求められます。平均年間給与の前年比増減率の義務化も新設され、「人件費という投資が、戦略通りに増えているかどうか」が可視化されることになります。
ここで、先ほどのガイドライン改定との関係が浮かび上がります。
新しいガイドラインは、非正規社員との待遇差について社内(従業員)への説明義務を強化しました。一方、有報は給与決定の方針を社外(投資家)に説明することを求めます。つまり、社内向けと社外向けの説明が矛盾することは、もはや許されなくなります。非正規社員を「調整弁」ではなく「戦略遂行のパートナー」と位置づけるなら、それに見合った待遇改善と、その妥当性の説明がセットで必要になる。逆に、非正規を含めた全体の底上げを「生産性向上への投資」として戦略的に語ることができれば、それは企業価値の向上に直結します。
投資家は「不合理な待遇差=法的リスク」を嫌います。
同一労働同一賃金への対応が不十分な企業は、有報において「人材戦略の整合性」を疑われる。これからは「法的に是正した結果として給与が増えた」という受け身の説明では不十分で、「持続的な成長のために、非正規を含めた全従業員の待遇を戦略的に最適化した」というストーリーの構築が問われます。
さて、ここで冒頭の問いに戻ります。なぜ2026年に「男女間賃金格差が縮小しました」と書く企業が増える可能性があるのか。
有報での男女間賃金格差の開示では、全労働者・正規雇用・非正規雇用の3区分で数値を出す必要があります。そこに、再雇用という変数が大きく関わってきます。
現状、定年後の再雇用者は圧倒的に男性が多い傾向にあります。そして多くの企業では、再雇用によって賃金が現役時の5〜7割程度に下がるケースが一般的です。高給取りだったシニア男性が、再雇用で低賃金の非正規層にスライドする。すると「男性全体の平均賃金」が押し下げられ、女性の平均との差が見かけ上縮まる——。
これを統計学では「構成効果」と呼びます。建築で言うなら、1階の床が地盤沈下して低くなったから2階との段差が縮まった、それをバリアフリーと呼ぶようなものです。本質的な改善ではありません。女性の賃金が上がったのではなく、男性シニアの賃金が下がっただけ。構造的な格差は何も解消されていない。
投資家や当局もこの「数字のトリック」には気づいています。だからこそ2026年の開示ルール改正では、単に数字を出すだけでなく「なぜその数字になったのか」の分析と注記がセットで求められます。「再雇用者の割合が男性に偏っているため、数値が変動している」という構造的な要因を正直に開示することが推奨される方向になっています。
さらに、ここで同一労働同一賃金のガイドライン改定が効いてきます。「再雇用だから給料を下げる」という慣習が、「同一労働なら下げ幅に合理的な根拠が必要」というルールで制限されていけば、この皮肉な格差縮小マジックも次第に効きにくくなる可能性があります。つまり、ガイドライン改定は格差縮小という「見せかけの改善」も同時に抑制する方向に働くわけです。
再雇用の問題は、男女格差の数値だけにとどまりません。「人的資本経営」の観点からも、2026年以降は厳しく問われることになります。
高い専門性を持つシニアを若手育成の要として戦略的に再雇用している、と有報に書くのであれば、それに見合った報酬体系が伴っていなければ説得力がありません。同一労働同一賃金の観点から不当に大きな格差がある状態で「シニアの活躍を推進しています」と書けば、それはむしろ人的資本開示の信頼性を損ないます。「コスト」として再雇用者を扱う企業と、「投資」として位置づける企業の差は、2026年以降の有報で読み取れるようになるでしょう。
今後、企業が同時に解決しなければならない課題は二層あります。実務面では、再雇用者の業務内容と責任の範囲を明確に再定義し、同一労働同一賃金の趣旨に照らして納得感のある賃金体系へと整備すること。開示面では、再雇用者の存在が男女間賃金格差の数値にどう影響しているかを透明性を持って説明し、それが人材戦略の一部であることを証明すること。
これは決して容易な作業ではありません。人事部門にとっては、制度の再設計と開示ナラティブの構築という「二正面作戦」を同時に迫られる、なかなか胃の痛い2026年になりそうです。
2026年に企業に問われているのは、「ルールを守ったか」ではなく、「賃金に思想があるか」です。
同一労働同一賃金ガイドラインの改定は、企業に「手当の目的を再定義する」ことを迫ります。有報の人的資本開示強化は、その再定義を「戦略の物語」として投資家に語ることを求めます。そして再雇用を巡る男女格差の問題は、「数字の背景にある構造を正直に説明する」誠実さを試します。
「格差が縮まった」は、答えではなく、問いの始まりです。なぜ縮まったのか。女性の賃金が上がったのか、男性シニアの賃金が下がっただけなのか。その違いを説明できる企業だけが、これからの投資家の信頼を得られる——2026年は、そういう年になりそうな気がします。
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本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、次回のブログで。
執筆担当:川上 佳子
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。