サステナ開示をめぐる動向 / ニュース / 人材戦略 / 人的資本開示
この記事の3つのポイント
「若者のビール離れ」や「インフレによる高コスト体質の限界」——。
2026年2月、オランダのビール大手ハイネケンが発表した「最大6,000人の人員削減(全従業員の約7%)」と、2026年1月に表明された「ファン・デン・ブリンクCEOの5月末退任」のニュースを、一般の経済メディアはそのように報じました。
ビール販売量の前年比2.4%減少、欧州市場の3.4%減という需要低迷。
AI・デジタル化を軸とした年間4億〜5億ユーロの生産性改善目標。
そしてCEO自身が語った「EverGreen 2030戦略」に基づく組織のスリム化
——これだけのファクトが揃えば、経済紙がそのように結論付けるのも、十分理解できます。
ですが、サステナビリティ目線でみれば、この事象を単なる「消費トレンドの変化」や「よくある業績悪化」で片付けるのは、一面的に過ぎるかも…という気もしてきます。
と申しますのも、ハイネケンの「2024年次報告書」(同社初のCSRD/ESRS準拠報告書)——を読み込むと、報道の行間に、もう一つの構造的な力学——欧州サステナビリティ報告基準(ESRS)への本格適応が企業の労働力管理にもたらす、根本的なコスト構造の変化——が見えてくるからです。
以下は、この視点からの筆者の分析・考察です。
ハイネケンの2024年次報告書が注目に値するのは、同社初のCSRD/ESRS準拠報告として、ESRS S1(自社の労働力)の開示要件に正面から取り組んだ点です。
ESRS S1は、企業に対し「自社の労働力(Own Workforce)」の範囲を直接雇用の従業員のみに留めず、派遣労働者や請負業者を含む非従業員にまで広げた開示を求めています。
ハイネケンのように70カ国以上で事業を展開し、87,000人の従業員に加えて膨大な外部労働力を活用する企業にとって、この開示範囲の拡大は単なる「レポート上の項目追加」ではありません。
安全衛生のルールを外部の労働者にも適用し、内部通報制度(スピーク・アップ)の対象を広げ、「ハイネケンのために働くすべての人の尊厳と安全を守る(Care)」という姿勢を打ち出す——これはステークホルダー資本主義の先進的な実践です。
私がここで指摘したいのは、こうした「責任範囲の拡大」が必然的にもたらすコスト構造への影響です。
これまで外部化されていたサプライチェーン全体の労働環境監視・安全確保は、開示義務の対象となった瞬間から、無視できないコンプライアンス維持コストとなります。
メディアが指摘する「高コスト体質」の背景要因の一つとして、このESG対応コストの構造的増大が潜在していた可能性を、私は注視しています。
※なお、ハイネケン自身やメディア報道において、ESRS準拠コストが今回のリストラの直接的原因として言及された事実はありません。上記はあくまで筆者の構造分析に基づく仮説です。
ハイネケンの公式発表とCFOハロルド・ファン・デン・ブルック氏の説明によれば、今回の5,000〜6,000人削減は「より簡素で効率的なハイネケン」を実現するためのものであり、削減対象の約半数はハイネケン・ビジネスサービス部門への機能移管です。
AI・デジタル化による生産性向上と、欧州や非優先市場からの「外科的撤退」が主な手段として語られています。
これは一般的なコスト削減策として合理的に理解できます。
しかし、ESG経営の観点からもう一歩深く考えると、興味深い構造的パラドックスが浮かび上がります。
かつて企業は、不況に陥れば外部の請負業者や非正規労働者を「雇用の調整弁」として真っ先に切り捨ててきました。
ですが、ESRS S1の開示を通じて外部労働者を「自社の労働力」の一部として可視化し、その保護に公式にコミットした企業は、安易に彼らを切り捨てれば「ESGウォッシュ」批判のリスクに晒されます。
責任の境界線(バウンダリ)を広げた結果、外部への機動的なコスト調整が難しくなり、結果として自社の正規従業員側の構造改革に踏み切らざるを得なくなる——この力学は、今回のハイネケンに限らず、ESG先進企業が今後広く直面し得る構造的課題だと筆者は考えています。
ファン・デン・ブリンクCEOの退任についても、補足が必要です。
同氏は2026年1月に自ら退任を表明し、監督委員会もこの判断を尊重しました。退任後も8ヶ月間アドバイザーとして留まることが発表されており、「解任」や「引責退任」とは異なる形態です。
ただし、その背景には市場からの厳しい評価がありました。
投資家からはコスト効率やリターンの面で競合に後れを取っているとの不満が指摘されており、業績プレッシャーが退任の判断に影響したことは否定できません。
いずれにせよ、このケースが示す重要な教訓は明確です。
どれほど先進的なESG開示を行い、サステナビリティへのコミットメントを表明しても、利益率と株主期待に応えられなければ、経営トップの交代は避けられない――ESGと財務パフォーマンスの両立は、言葉で語るほど簡単ではないということです。
より長期的な経営戦略の視点から見れば、ハイネケンの動きには単なるコスト削減以上の意味を読み取ることができるように思います。
数万人に及ぶ巨大なグローバル労働力に対し、ESRSが求める厳格な人権・安全基準を行き渡らせるには、企業のガバナンス能力に限界が訪れます。
「約束したESG基準(=保護の質)を絶対に落とせないなら、対象となる組織の規模(=分母)を、自社が完全に統制できるサイズまで再調整するしかない」——これは理論的に見て合理的な選択肢です。
ハイネケンが進める組織再編は、非優先市場からの撤退、サプライチェーンの統合、バックオフィス機能のサービス部門への集約、そしてデジタル化による効率向上で構成されています。
結果として、残る事業ポートフォリオにおいてESG基準を確実に満たしきれる体制への移行を企図している——私はそう解釈しています。
CSRD/ESRSをはじめとする非財務情報開示の波が日本企業にも押し寄せ、ESRSとの相互運用性を重視しているISSB/SSBJの適用が迫る中、サステナビリティ部門様としては経営陣と以下の「問い」への備えが必要ではないでしょうか。
自社が開示・管理する「総労働力」の範囲を広げた際、それに伴う監査・管理コストの増加を、どのような財務戦略(価格転嫁・効率化・事業ポートフォリオの見直し等)で吸収するのか。ハイネケンの事例は、この問いへの回答が不十分なまま進むことのリスクを示唆しています。
外部労働者を保護対象に含め、その処遇に公式にコミットした場合、不況時の柔軟なコスト調整能力にどう影響するか。企業の財務的弾力性を担保するための新たな仕組みが必要ではないか。
これからの時代、ガバナンスが及ばない範囲に無防備に労働力を抱えることは、開示義務の観点からも財務リスクの観点からも大きなリスクとなります。人権や安全のガバナンスが確実に機能する「統制可能な範囲」へと、事業ポートフォリオや組織規模を意図的に再設計する——その覚悟と準備が問われます。
ハイネケンの6,000人削減は、複合的な要因——需要低迷、デジタル化、効率化圧力——が引き金になった、それはその通りだと思います。
ですが、その底流に流れるESRS準拠という構造的要請が、今後の飲料業界にもたらすインパクトは、まだ十分に語られていないように思います。
「立派なサステナビリティ・レポートを作れば評価される」という時代は終わりつつあります。
真に厳格なESG基準を事業に実装するとき、それはこれまでのビジネスモデルや組織の規模そのものを問い直すことを意味します。
サステナビリティ担当者さまの仕事は、もはや「報告書を作ること」ではありません。迫り来るルール変更に対して、「自社の事業規模、コスト構造、そして労働力のポートフォリオをどう再設計するか」——これは究極の経営戦略の課題です。
ハイネケンが見せたこの風景から、私たちは何を学び、どう次の一手を打つべきか。日本のグローバル企業の真の知力と胆力が、今まさに試されているように思います。
—
※本記事は、公開されているハイネケン社の年次報告書、2026年2月の決算発表、および各種報道に基づく筆者独自の分析・考察です。ESRSコストとリストラの因果関係は筆者の仮説であり、ハイネケン社の公式見解ではありません。
特定の企業の意思決定や戦略を断定するものではなく、日本企業の皆さまがサステナビリティ戦略を考えるための一つの視座を提供することだけを目的としています。
ーーー
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、次回のブログで。
執筆担当:川上 佳子
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。