この記事の3つのポイント
本記事は、2026年2月2日付ブログ記事『なぜ今、日本の「ビジネスと人権」行動計画は改定されたのか――5年間の総括と、「一見後退に見える局面」で示された判断』の続編です。
未読の方は、あわせてご覧いただくと、より理解が深まります。
第1回では、日本の「ビジネスと人権に関する行動計画(NAP)」改定が、欧州で人権デュー・ディリジェンス(DD)をめぐる要請が後退したとも受け取られかねない局面で行われた点を確認しました。
では、その後退に見える動きの正体は何だったのでしょうか。
そして、もし制度側が見直しに向かったとしても、企業に求められる水準は本当に下がるのでしょうか。
今回は、CSDDD(企業サステナビリティ・デュー・ディリジェンス指令)というハードローだけでなく、NGOやベンチマーク、そして調達の現場で働くソフトな圧力まで含めて、この問いを読み解いてみたいと思います。
欧州委員会が2025年2月に提示(公表)したオムニバス簡素化パッケージをめぐっては、規制後退という解釈がされることも多くあります。
実際、適用対象企業の絞り込みや報告義務の見直しが盛り込まれたことで、企業の皆さまの中にも「風向きが変わったのでは」と感じられた方がいらっしゃるかもしれません。
ですが、欧州内外の分析や報道を丁寧に追っていくと、見えてくるのは少し違う景色です。
今回の簡素化の主眼は、理念を引っ込めることよりも、適用対象や義務の組み方を「実務として回る形」へ調整することに置かれていました。
中小企業への過度な負担を避けつつ、大企業には引き続き実効性のあるDDを求める――そうした設計の微調整と捉えるほうが、実態に近いように思います。
確かに、適用対象の線引きが変われば、自社が直接の義務対象かどうかという前提条件が揺らぎます。ただ、ここで私たちが見落としてはならないのは、制度が整理される局面でこそ、別の場所で「中身の検証」が本格化する、という点です。
制度の枠組みが動く時期に、企業が直面するのは条文の量ではありません。
人権DDはすでに、報告書を作成して終わりという段階を超えて、市場アクセス(輸入・調達の局面)、評判(ブランドや採用への影響)、そして資本市場(投資家との対話)と結びついて動き始めています。
象徴的なのが、オムニバス簡素化に対して、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)などから、UNGPをはじめとする国際基準との整合性を外さないことを求める警告が出ている点です。
制度の枠組みが見直されても、人権DDの筋を緩めてはならない――そうした別ルートからの圧力が、同時並行でかかっているのです。
制度の動きに対して、NGOは敏感に反応します。
ただ、その焦点は「後退かどうか」という評価よりも、「実効性は本当に担保されるのか」「被害を受けた人々への救済に届くのか」に置かれることが多いようです。
こうした論点整理や反応の蓄積は、企業側の説明に対して「監視の目」を入れる役割も果たしています。
さらに注目すべきは、ベンチマークの存在です。
ベンチマークは法律のように対象企業を絞り込みません。
生活賃金やジェンダーのように争点化しやすい論点を、説明可能な形で企業に突きつけることで、DDの中身を具体化していきます。
こうした動きは、規制の対象外であっても、業界のリーディングカンパニーであれば無視できない圧力として機能しています。
ここまでが、いわば「社会側の圧力」です。
ただ、皆さまの日々の業務により近い圧力は、次の領域にあるのではないでしょうか。
規制が緩和されたように見えるとき、企業は様子見に傾く余地が生まれます。
けれど実際の調達や取引の現場では、様子見が許されない局面が確実に増えています。
理由はシンプルで、サプライチェーンのリスクが、報告の問題ではなく、取引の問題として扱われ始めているからです。
その役割を、非常に実務的な形で担っているのがEcoVadisです。
EcoVadisは、企業のサステナビリティの取り組みをエビデンス(証拠)ベースで評価することを明確にしています。
自己申告ではなく、裏づけ資料が前提になる――この設計思想が、調達の現場で「紙だけの対応」では通らない方向へ企業を押し出しています。
さらに重要なのは、EcoVadisのスコアカードが、発注企業側で新規ベンダー選定やRFP・RFQの評価要素として組み込まれ得る、と公式に説明されている点です。
スコアが一定水準に達しない場合には、改善に向けて是正計画の開始が促されることもあります。
ここに、本質があります。
規制の枠組みが見直されたように見えても、クライアント(調達の現場)は、そして投資家は、サプライチェーンへの見る目を厳しくし続けています。
そしてその厳しさは、理念や方針ではなく、「取引の要件」として具体化されていくのです。EcoVadisは、その変換装置として機能しています。
ここまでをまとめると、欧州のオムニバス簡素化は、「後退か前進か」という二者択一で評価するよりも、次のように捉えたほうが実務では有効です。
制度は実務として回る形へ調整され、NGOやベンチマークは論点を前に進め、そして調達の現場は証拠と是正で中身を見に行く――つまり、企業に残されるのは「やっています」という宣言ではなく、「機能していることの説明」なのです。
第1回で扱った日本版NAP改定の「実装・定着・実効性」という言葉は、この「説明の地面の変化」を、国内向けに言い直したものとも読めます。
形式を整えることから、実質的に機能させることへ――この転換が、いま静かに、しかし確実に進んでいるように思います。
では、日本企業はこの局面で、どこから手を付けていけばよいのでしょうか。すべてを一気に深掘りするのは、現実的ではありません。
次回(第3回)では、日本版NAPの記載を手がかりに、実装で見落としやすいポイント、サプライチェーンで「機能している」と説明するための段取り、そして生活賃金やジェンダーのような個別論点を、社内のDD設計にどう接続していくか――これらを、できるだけ実務に引き寄せて整理していきたいと思います。
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本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、次回のブログで。
執筆担当:川上 佳子
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。