この記事の3つのポイント
2025年12月24日、外務省は「ビジネスと人権に関する行動計画(NAP)」の改定版を公表しました*1。
サステナビリティやIRを担当されている皆さまの中には、「また一つ、国の方針が更新された」と受け止めた方もいらっしゃるかもしれません。
けれども、今回の改定は、単なる政策文書のアップデートではありません。
注目したいのは、国際的には人権デュー・ディリジェンスをめぐる要請が「後退した」とも受け取られかねない動きが出始めていた、その局面で行われた改定であったという点です*2。
2020年に策定された第1次NAPは、日本企業に「ビジネスと人権」という視点を広く浸透させました。
人権方針の策定、人権デュー・ディリジェンス(DD)という概念の普及、統合報告書での情報開示。
これらは、この5年間で確かに進んだ変化です。
一方で改定版NAPは、サプライチェーンにおける人権リスクに対応する実践的な取組と、国内企業の大半を占める中小企業による理解促進を、引き続きの課題として明記しています。
また同節では、外国人労働者や女性、LGBTQ、障害者、非正規雇用労働者など、社会的に弱い立場にあるライツホルダーに関する問題意識の高まりにも触れています*1。
なお、DDの実務では、影響を受けるステークホルダーとのエンゲージメントや、救済(苦情処理)の実効性が重要な論点になります(OECDや国連の議論が共通の参照枠となっています)。
改定版NAPでは、優先分野を整理したうえで、人権デュー・ディリジェンスの導入促進に関する期待を示しつつ、相談窓口や関連施策の提示など、裾野を広げるための実務的な支え方もあわせて記載しています*1。
こうした国内の総括と並行して、2025年後半、欧州連合では重要な動きがありました。
企業サステナビリティ・デューデリジェンス指令(CSDDD)や企業サステナビリティ報告指令(CSRD)などを含む枠組みについて、いわゆる「オムニバス簡素化」と呼ばれる調整が政治的に合意されたのです*2。
適用対象企業の絞り込みや、義務内容の整理は、表面的には、人権デュー・ディリジェンスに対する要求水準が引き下げられたようにも映ります。
実際、企業負担の軽減や競争力確保という文脈で、この動きを捉える説明も公式に示されています*2。
このような状況下で、日本も外部環境の変化に合わせ、論点を縮める方向に寄せる選択肢は理論上あり得ました。
しかし日本政府はそうではなく、2026~2030年を対象とする第2次NAPを新たに策定しました。
改定版では、人権デュー・ディリジェンスについて、導入・普及だけでなく「実装・定着・実効性」をより意識した構成が採られています。
さらに、AI・テクノロジー、環境と人権といった論点も整理されました。
この点からも、第2次NAPは「同じことを繰り返す」のではなく、5年間の総括を踏まえ、次の実務フェーズへ移ろうとしていることがうかがえます。
ここで大切なのは、なぜいま「実装」への圧が強まるのか、です。
背景には、人権や不平等が、もはや理念的なCSRの領域にとどまらず、金融市場や経済安全保障と結びついたリスクとして扱われ始めているという国際環境の変化があります。
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たとえば経済安全保障(市場アクセス)の側面では、強制労働をめぐる規制・執行が象徴的です。
米国では、U.S. Customs and Border Protectionの運用のもと、サプライチェーン起因の人権問題が「通関・取引の停止リスク」として現実に顕在化しています*3。
欧州でも、強制労働製品を市場から排除する規則が整備され、人権は「理念」にとどまらず「市場に出せるかどうか」の条件になり得る方向へ進んでいます*4。
金融市場の側面では、投資家が人権・社会課題をテーマに共同エンゲージメントを行う動きが進んでいます。
PRIの「Advance」は、人権や社会課題をスチュワードシップ課題として扱う枠組みの一つです。
ここで重要なのは、「善意の活動」というより、投資家自身が“リスク管理とリターン”の文脈で人権を扱い始めている点です*5。
そして情報インフラの側面でも、変化は進みます。
IFRS FoundationのISSBが公表するIFRS S1は、気候に限らず、サステナビリティ関連のリスク・機会のうち重要なものについて、一般目的財務報告の利用者に有用な情報開示を求めています*6。
つまり、人権や不平等が企業の見通しに影響しうる局面では、それは開示の射程に入ってくる――この前提が広がっています。
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こうした「市場アクセス」「資本市場」「開示インフラ」の同時進行の中で、
第2次NAPは、企業に対して
- 「取り組んでいるかどうか」ではなく、
- それがどのように機能しているかを問う
前提条件を示したものといえます。
欧州で進んだCSDDDのオムニバス簡素化は、人権デュー・ディリジェンスをめぐる要請が「後退した」と受け止められがちな動きでもありました。
しかし重要なのは、その動きをどう読むかです。形式的な義務の整理なのか、それとも企業に求められる本質が別のかたちで明確になったのか。読み方によって、企業が備えるべきポイントは大きく変わります。
次回は、この「一見、後退に見える動き」の内実を整理しながら、その中で日本版NAPがどのような現実的判断を示したのかを掘り下げていきます。
本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、次回のブログで。
執筆担当:川上 佳子
*1 外務省「ビジネスと人権に関する行動計画(改定版)(2026–2030)」および「改定」説明資料(2025年12月24日公表)
*2 欧州連合:CSDDD/CSRD等の簡素化(オムニバス)に関するEU理事会・欧州議会等の公表資料(2025年12月合意)より。なお、ここで言う「後退」は、良し悪しの評価ではなく、そう見えやすい局面があったという状況整理です。
*3 U.S. Customs and Border Protection:Forced Labor(強制労働に関する通関措置・関連制度の説明)
*4 欧州連合:強制労働製品をEU市場で禁止する規則(Regulation (EU) 2024/3015)
*5 PRI:Advance(人権・社会課題に関する協働エンゲージメント)
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。