この記事の3つのポイント
本記事は、2025年12月4日付ブログ記事『71%の「良好」 の裏側にある変化を読む——日米関係のニュースから考えるサーベイ解釈の難しさ』の続編です。
未読の方は、あわせてご覧いただくと、より理解が深まります。
通勤電車で、ふと目に留まった転職サービスの広告がありました。
「4人に3人が給料アップ」
「求人紹介満足度92%。数字は嘘をつかないわ」
マーケティングの文脈では、見事な訴求です。
「ほとんどの人が成功している」という安心感を、数字だけで一瞬にして伝えてくる。
しかも100%ではなく、少しだけ欠けた高い数字。
私たちはなぜか、こういう数字に現実味を感じやすいところがあります。
ですが、この「数字の魔力」をそのまま人的資本開示の世界に持ち込んでしまうと、少し話が変わってきます。
統計の世界には、「数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う」という有名な言い回しがあります。
92%という数字を見たとき、私たちは本来、いくつもの前提を確認しなければなりません。
分母は何人か。満足とは何を指しているのか。調査はどのタイミングで行われたのか。
マーケティングでは、そうした背景をそぎ落とし、数字そのものを「結論」として提示します。
それが正しい場面も、もちろんあります。
ですが、IRや人的資本開示の文脈では、数字は結論ではありません。
むしろ、対話を始めるための入口となるはずのものです。
仮に、ある企業のレポートに「社員のエンゲージメント満足度92%」と書かれていたら、読み手はどう受け取るでしょうか。
「高いですね」と称賛するだけでなく、少し立ち止まることでしょう。
高すぎないか。
同調圧力は働いていないか。
残りの8%に、見過ごせない兆しはないか。
広告における92%が「期待の指標」だとすれば、人的資本開示における92%は、しばしば「問いを促す指標」になります。
ここで問われるのは、数字の高さそのものではありません。
その数字が、何を語り始めようとしているのかです。
数字は、私たちに安心を与えてくれます。
測れている、
管理できている、
把握できている。
だからこそ、企業経営でも「測れるものを管理する」という発想が強まっていきます。
そういえば最近、人事や組織の議論の中で「仕事のピクセル化」という言葉を耳にすることがあります。
AIやギグワークの広がりによって、仕事がタスク単位に分解され、最適な担い手に割り振られていく。
一見すると、非常に合理的で、効率的です。
ただ、この光景はまったく新しいものではありません。
20世紀初頭、フレデリック・テイラーが提唱した科学的管理法も、仕事を細かな動作に分解し、時間を計測し、最も効率的な手順に標準化していく発想でした。
「分解して最適化する」という筋道自体は、昔から繰り返し現れてきたものです。
サステナビリティの視点で見ると、仕事の細分化は一つのアラートでもあります。
仕事を分解しすぎると、「働きがい」や「創造性」といった、測りにくいが確かに存在する価値が、こぼれ落ちてしまうからです。
効率は上がっているのに、仕事の意味が見えなくなる。
「自分の仕事が、何につながっているのかわからない」という違和感が語られる場面も、少なくありません。
こうした感覚が積み重なると、短期的には回っているように見える組織が、長期的には熱量を失っていくことがあります。
人的資本経営を語るとき、私たちは効率化の成果だけでなく、その裏側で何が薄れていないかにも、目を向ける必要があるのです。
では、「数字で測る経営」と「人の心を大切にする経営」は、どうすれば両立できるのでしょうか。
評価制度やKPIといった仕組みだけが前に出ると、人は「損か得か」で動くようになります。それ自体は合理的ですが、そこにはどうしても「やらされ感」が残ります。
一方で、「現場を大切に」「文化が重要だ」といった物語だけでは、変化のスピードについていけません。何をどう変えたのか、組織として説明も改善もできないからです。
ここで重要になるのが、ナラティブ、つまり語りの力です。
たとえば
「このKPIは、君たちを縛るためのノルマではない。現場で大切にしてきた価値を、会社として正式に認めるための共通言語なんだ」
そんな言葉が添えられて初めて、数字は管理の道具から、意味を持つものへと変わります。
制度で測る世界と、意味で動く世界をつなぐ糸が、ナラティブなのです。
ピアノの演奏を思い浮かべてみてください。
正確な打鍵は欠かせませんが、それだけでは名演にはなりません。
曲全体の文脈や、そこに込められた想いがあって初めて、音は人の心に届きます。
人的資本開示も同じです。
数字はピクセルであり、それ自体では絵になりません。
パーパスという大きな構図の中に配置され、文脈を与えられて初めて、一つの物語になります。
92%や71%といった数字の裏側にある、分解できない個々人の経験や感情に、どれだけ耳を澄ませられるか。そこに、この分野の専門性があります。
電車の広告に書かれた「満足度92%」を見て、多くの人は安心します。
でも、サステナビリティ担当者であるあなたは、その数字を見て問い始めることができます。
なぜ92%なのか。
前回と比べてどう変わったのか。
この満足は、来年も続いているのか。
数字は答えではありません。問いの始まりです。
その問いを通じて、細かく分解された仕事を、再び意味のある一枚の絵へと編み直していく。
それが、いま私たちに求められている役割なのだと思います。
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本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、次回のブログで。
執筆担当:川上 佳子
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。