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銀座の「握手」は何を問いかけているのか――松方幸次郎に学ぶ、人的資本経営の本質

人材戦略 / 人的資本開示

この記事の3つのポイント

  • 銀座のステンドグラスと松方幸次郎の美術収集・労働改革を手がかりに、人的資本経営の原点にある「思想」を読み解く
  • 数値化しにくい価値に賭ける判断こそが、人的資本投資やその開示を支えている構造であることを示す
  • 制度や指標の整備に追われがちな実務の中で、「何のために語るのか」を立ち止まって考える視点を提供する

銀座五丁目、巨大なステンドグラスとの出会い

銀座五丁目のBUNMEIDO CAFE GINZA
ここには、建物の中に足を踏み入れた人だけが出会える、ある「お宝」があります。

 

一階カフェの吹き抜けの壁面いっぱいに掲げられた、巨大なステンドグラス。

中央で二人の王が手を取り合い、その周囲を華やかな衣装の人々が取り囲んでいます。外からは見えにくく、知る人ぞ知る存在ですが、一度目にしてしまえば多くの方が思わず足を止めるのです。

 

これは16世紀の「金襴の陣」を題材とした作品で、19世紀後半のフランスで制作されたとされます。

ガラスに色を焼き付ける「エマイユ技法」が用いられ、油彩画のような繊細な表現をもつ本物のアンティーク。それにしても、なぜこの文化財がここにあるのでしょうか。

 

華族銀行の頭取が選んだ「本物」

このステンドグラスは、1922年、かつてこの地に建っていた十五銀行の銀座支店を飾るためにフランスから輸入されたと伝えられています。

十五銀行——通称「華族銀行」。
明治政府が武士や大名への給料を打ち切る際、代わりに発行した「金禄公債」を資本金として1877年に設立された、極めて特殊な銀行です。

旧大名や公卿といった華族たちの資産を守り、運用するための銀行として、全国立銀行の資本金総額の約半分に迫る水準を誇っていました。

 

このステンドグラスを発注した当時の頭取は、松方幸次郎でした。

初代首相・松方正義の三男であり、川崎造船所(現・川崎重工業)の社長も兼任する、日本経済界を代表する実業家です。

銀行のロビーを単なる待合スペースではなく「文化の社交場」にしようと考えた彼が、その象徴として選んだのが、この壮大な歴史絵巻だったのです。

 

「18枚買いたい」と申し出た逸話

松方幸次郎について語られる逸話の中には、彼が印象派の巨匠クロード・モネのアトリエ(ジヴェルニー)を訪れ、《睡蓮》の前で「18枚買いたい」と申し出たという話があります。

モネは感激し、「本来は手放さない自宅の作品だが、特別に譲ろう」と応じた――そう伝えられています。

松方自身、美術の専門家を自認していたわけではなかったとも言われます。
それでも彼は、「これは日本の未来に必要だ」と感じたものに、私財を投じることをためらいませんでした。

 

「わからなさ」に賭ける経営判断

モネの《睡蓮》を前にして、松方が考えたのは投資回収率ではなかったでしょう。
私財を投じる決断において彼が信じたのは、数値化できない価値でした。

この姿勢は、2026年を迎えたいま、私たちサステナビリティやIRに携わる者にとって、どこか既視感があるのではないでしょうか。

人的資本の情報開示において、私たちはしばしば「どこまで開示すべきか」「何を指標にすべきか」「効果をどう測るか」という問いに直面します。

育成投資の成果は数年後にしか見えず、ウェルビーイング施策の効果は定量化しづらく、ダイバーシティ推進の真価は財務数値には直結しません。

それでも、私たちは開示を続け、経営陣は投資の決断を下し続けています。
ベースアップ、物価高、原価上昇――コスト圧力が高まる中でも、人的資本への投資は止められません。

開示担当者の皆さまは、まだ成果の見えない取り組みを、どう言葉にすべきか悩みながら資料を作り続けています。

それは、「これは未来に必要だ」と信じているからではないでしょうか。

松方が美術品に向き合ったときの判断と、本質的には同じ構造がそこにあります。

 

「労働は商品にあらず」と共鳴する姿勢

松方が「わからなさ」に賭けたのは、美術の世界だけではありませんでした。

1919年、川崎造船所で日本初の8時間労働制を導入したとき、彼は賃金を下げず、労働時間だけを短くするという決断を下しました。
当時としては極めて異例の判断です。
大規模な労働争議に直面していた中での、持続可能な解決を見据えた提案でした。

この判断は、第一次世界大戦後に広がった「労働は商品ではない(Labour is not a commodity)」という思想――のちにILO憲章にも明記される考え方と、強く響き合うものです。

従業員を単なるコストではなく、尊厳を持った人間として捉える。
この姿勢は、現代でいえば「人的資本経営」そのものです。

100年以上前に、松方はそれを実践していました。

 

2026年、私たちが設計しているものは何か

いま日本では、「もっと働ける人が働ける社会」が語られています。

定年延長、女性活躍、柔軟な働き方の推進。
どれも重要な政策であり、企業としても真摯に向き合うべきテーマです。

ただ、そのとき私たちは何を設計しているのでしょうか。

単に労働投入量を増やすことなのか、それとも働く一人ひとりが能力を発揮でき、創造性を持って社会に貢献できる環境を整えることなのか。

人的資本経営とは、制度設計や開示項目を整える作業であると同時に、どんな社会を次世代に手渡すかという思想の問題でもあります。

松方が8時間労働を導入したとき、彼が見ていたのは目の前の争議解決だけではなく、その先にある日本の産業社会のあり方だったのではないでしょうか。

 

担当者として、できること

とはいえ、私たち実務担当者は日々、具体的な数値目標や開示要請、ステークホルダーからの質問に応えなければなりません。壮大な理念だけでは仕事は進みません。

それでも、松方の姿勢から学べることがあるとすれば、それは「測れないものを信じる勇気」ではないでしょうか。

 

人的資本の開示資料を作るとき、数値だけでなく、その背景にある思想や意図を丁寧に言葉にすること。
投資家との対話で問われたとき、「まだ成果は見えていませんが、私たちはこう考えています」と誠実に語ること。
社内で施策の意義が問われたとき、短期的なROIだけでなく、中長期的な組織文化への影響まで視野に入れて説明すること。

 

それらは決して容易ではありませんが、私たちが日々向き合っている仕事の中に、確かに未来への投資としての意味があるのだと、松方の歩みは教えてくれます。

 

次に銀座を訪れる機会があれば、ぜひあのステンドグラスを見上げてみてください。

中央で握手を交わす二人の王と、片隅で静かに見守る道化師が、100年の時を超えて、私たちにこう語りかけているはずです——「測れないものを信じる勇気を、持ち続けてください」と。

 

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本日もお読みいただき、ありがとうございました。

それではまた、次回のブログで。

 

執筆担当:川上 佳子

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