この記事の3つのポイント
本記事は、2025年12月1日付ブログ記事『標準化の影で揺れる「選べる自由」——マイナ保険証とダークパターンをめぐる静かな課題』の続編です。
未読の方は、あわせてご覧いただくと、より理解が深まります。
2026年1月14日付の報道で、花王が「皮脂RNA解析」を起点とする事業を、2026年から本格的に社会実装していくことが伝えられました。
(ご参考)
花王・キリン、遺伝子データで「あなた用化粧品」 市場飽和で連携 (2025年1月14日、日経電子版)
花王のスキンケア「ソフィーナ」やヘアケア「ジ・アンサー」など、生活者にとって身近なブランドから始まるという点も含め、技術が研究室の外へ出ていく速度を実感します。
この流れを、私は「データ利活用の延長線上」とだけ捉えるのは危ういと思っています。
理由は、今回の論点が「人が提供したデータ」そのものよりも、そこから導かれる「推定結果」にあるからです。
これまで、Suicaの移動履歴や、マイナ保険証(オンライン資格確認)に紐づく情報の利活用については、企業の担当者さまも「便利さ」と「説明責任」の間で悩んでこられたはずです。
ただ、今回の技術が示唆するのは、もう一段進んだ問いです。
私たちは、データを渡した覚えがなくても、AIが「あなたはこういう状態/こういう傾向」と推定し、社会の側がそれを「それらしい事実」として扱い始める。
この非対称性こそが、今回のニュースの核心だと思います。
花王の皮脂RNA解析技術は、あぶらとりフィルム等で皮脂を採取し、そこからRNAを抽出・解析することで肌状態を捉える技術として紹介されてきました。
そして今回、さらに踏み込んで注目されたのが、「顔画像から肌タイプを推定する」というアプローチです。
記事中には、スマートフォンで顔を撮影し、その画像をもとに“RNA情報に基づいて定義された肌タイプ”を推定する、といった趣旨の説明が見られます。
ここで、言葉の精度が大切になります。
顔写真から「RNAそのもの(発現量など)」を直接取り出す、というよりは、皮脂RNA解析を土台に定義された肌タイプを、顔画像から推定する──この方が実態に近い理解でしょう。
それでもインパクトは変わりません。
生活者が渡すのは「顔画像(外見データ)」なのに、企業が得るのは「体内の状態に関係しうる推定情報(内側に近い情報)」になっていく。
これは、本人が自覚している“提供の範囲”を超えて、推定がプライバシー領域へ侵入してくる構造です。
私たちが軽い気持ちで「肌診断アプリ」に自撮りをアップロードする場面は、いくらでも想像できます。
しかし、その裏で行われているのが「分析」ではなく「推論」だとしたら、説明の設計はまったく別物になります。
もう一つ見逃せないのは、この動きが化粧品の世界だけに留まらない可能性です。
RNA共創コンソーシアムには、花王やアイスタイルに加え、キリンホールディングス、コーセーなど多様な企業が関与しています。公式サイトには、ヘルスケア領域を含むさまざまなユースケースも描かれています。
つまり、筋書きとしてはこうなり得ます。
肌の状態(推定)に関する情報が、食・栄養・運動・睡眠といった別領域のサービスと結びつき、生活者にとって「便利な提案」として統合されていく。
もちろん、それ自体は、良い未来にもなり得ると思います。
未病や慢性疾患の早期発見につながる可能性を、私は否定したいわけではありません。
ただ、厄介なのはここからです。
「便利な統合」が進めば進むほど、生活者は「どこまで推定され、どこまで共有され、どこまで利用されるのか」を把握しにくくなる。
そして、把握しにくいものほど、後から「そんなつもりじゃなかった」という不信の火種になりやすい。
だからこそ私は、技術の是非よりも、「社会にどう広がるか」「広げ方を誰がどう設計するか」を論点の中心に置くべきだと考えます。
こうした技術の議論で、よく起きがちな落とし穴がここにあります。
技術が動くことが証明されると、社会はすぐ「では万人に使えるのだ」と期待してしまう。
しかし、AIの現場で最も問題になりやすいのは、その飛躍です。
花王が公表している検証規模は、日本人女性3,248名の素顔写真を用いたものとして説明されています。
さらに、正解率が最大67%といった情報も示されています。
この数字は、研究としては興味深い一方、社会実装という観点では、別の問いを呼びます。
- そのデータは、年齢・肌質・生活環境・撮影条件などの偏りがどの程度あるのか
- 当たりやすい人/当たりにくい人が構造的に生まれていないか
- 外れた場合、誰がどんな不利益を被るのか
ここで問題になるのは、誤差そのものよりも、誤差が、特定の属性に偏って現れることです。
もし特定の顔立ちや肌の特徴を持つ人が、ある種の判定を受けやすい設計になっていたら、それは技術の不具合ではなく、社会的な偏りを増幅する装置になり得ます。
美容のレコメンドであれば、違和感は「合わなかった」で済むかもしれません。
ですが、推定情報が別領域へ持ち出される未来を想定するなら、話は変わります。
健康・保険・雇用といった文脈に接続されるほど、推定の「レッテル」は重くなるからです。
技術の進化を止めることはできません。
また、RNAを起点とした個別最適なケアが、医療・ヘルスケアに大きな価値を生む可能性があることも確かです。
だからこそ、いま企業に求められるのは「法令遵守」だけでは足りない、という話になります。
参加企業が向き合うべきは、ELSI(Ethical, Legal and Social Implications)──倫理・法・社会的影響の設計です。
私が特に重要だと思うのは、次の3点です。ここは“理念”ではなく、実務の設計論になります。
第一に、透明性。
推定結果が出る仕組みを、どこまで説明できるのか。少なくとも「何を入力し、何を出力し、何が限界で、どんな誤差が起きるのか」は、生活者が理解できる言葉で提示できる必要があります。
第二に、拒否権(コントロール)。
生活者が「推定は受けるが共有はしない」「この用途には使わないでほしい」と選べる設計になっているか。推論時代のプライバシーは、“同意ボタン”だけでは守りきれません。
第三に、目的の限定と転用の防止。
「肌診断」で得た推定情報が、本人の想定外の領域に転用されないことを、企業側がどう担保するのか。ここは信頼の土台です。
Suica、マイナ保険証、そして今回の「推論としての生体情報」。
この連続性の中で問われているのは、結局のところ「便利さの設計」と「尊厳の設計」を両立できるか、です。
企業の現場では、技術の推進と同時に、説明責任の設計が求められます。そして、説明責任とは、後追いの広報ではありません。社会に広がる前に、広がり方をデザインすることです。
顔写真が、本人の想定を超えて意味を帯びる時代。
便利さと引き換えに何を失い得るのかを、私たちは今、入口で考えるべきなのだと思います。
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本日もお読みいただき、ありがとうございました。
それではまた、次回のブログで。
執筆担当:川上 佳子
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。