コーポレート・ガバナンス / サプライチェーン / 人権
本日は少し、昔話を。
大学を卒業後、私が最初に就職した会社は銀行でした。
当時は、入社(入行)からの半年間は研修三昧。
集合研修での座学に、支店でのOJT。寮に戻れば先輩との勉強会——とさまざまなことを詰め込んたなかで、一番印象に残ったのは「符牒(ふちょう)」を覚え、使いこなすことでした。
符牒とは、この場合、銀行業界の共通言語、いわばプロ同士で通じる隠語のようなものです。
そのなかでも特に多かったのが、手形にまつわる言葉でした。
「受手(うけて)」は、受取手形。
「為手(ためて)」は、為替手形。
「代手(だいて)」は、代金取立手形。
「割手(わりて)」は、割引手形。
銀行によって呼称は少しずつ異なるようですが、こんな感じの用語とともに、これらの言葉にまつわる実務を一つひとつ、覚えていったものでした。
業界には、さらに風刺的な言葉もありました。
「台風手形」「お産手形」「七夕手形」などがその例です。
「台風手形」とは、立春から数えて210日目の「二百十日」台風が襲来する季節)にもおよぶ長期支払サイトの手形のこと。「お産手形」は、赤ちゃんが生まれる頃、つまり10か月後が支払い期日となっているような超長期手形。
さすがに、支払いサイトが1年後の「七夕手形」を見たことはありませんが、台風手形ぐらいは私も、日々の業務の中で時々目にしておりました。
銀行員は、企業がこうした長期手形を振り出すようになってくると、「資金繰りが厳しいのでは」と警戒します。また、手形を受け取った側が手形割引の依頼を頻繁に持ち込むようになれば、それもまた「現金が足りていない」というサインです。銀行員としては(特に、その企業が融資先である場合は)注視しなければなりません。
融資の稟議書を書く時には、大手企業と取引をしていることはアピールポイントとなります。
しかし実際には、その大手企業の支払いサイトが長いということもままあり…取引量が増えれば増えるほど苦しくなる企業もあるという事実を目の当たりにし、中小企業経営者さまの苦労を思い、何もできない自分を悔しくも、はがゆくも思ったことが何度もありました…
手形は、単なる紙切れではありません。
そこには、企業間の力関係や、業界の構造が透けて見えました。
そして、この話を「単なる昔話」として片づけられないのが、この話題の困ったところなのです。
少し前のデータではありますが、2022年4月に公表された経済産業省「令和3年度 取引条件改善状況調査」では
代金を手形等で受け取っている割合は製造業や卸売業で高く、特に製造業では「50%以上」または
「全て手形」と回答した企業が2割を超えている
代金を手形等で受け取っている場合のサイトは、製造業、建設業、卸売業で「120日以内」「120日
超」が5割前後を占めている。
と、支払手形のサイトの長さが示されていました。
これに先立つ2021年3月には、公正取引委員会と中小企業庁が連盟で関係事業者団体約1,400団体に対し、「おおむね3年以内を目途として可能な限り速やかに手形等のサイトを60日以内とすることなど,下請代金の支払の適正化に関する要請」を行っています*1。
そして2024年4月には、公正取引委員会が、令和6年11月1日以降、親事業者が下請代金の支払手段として、サイトが60日を超える長期の手形等を交付した場合、下請代金支払遅延等防止法の割引困難な手形の交付等に該当するおそれがあるとして、その親事業者に対し、指導する方針を公表しています。*2。
これらの動きからは、支払いサイトの改善が進んでいないことが見てとれます。
支払いサイトの長さに加え、手形を受け取った企業は、手形期日よりも前に現金化をおこなう場合は金融機関に割引料を支払う必要があるため、実質的な受取金額は目減りしてしまいます。これは企業努力の範囲を超えており、むしろ業界構造としての「不均衡な力関係」だといえるでしょう。
上述のような「不均衡な力関係」は、ESGの観点から大きな課題となります。
サプライチェーンの中で起きている不均衡や非対称性──その中でも最もシンプルで、しかし最も深刻な「支払い条件」の問題からは、企業姿勢、企業としての誠実さが透けて見えます。
近年では、人権の観点から「生活賃金(Living Wages)」設定の取り組みが進んでいますが、それだけでなく、私は、支払い条件/支払いサイトの問題も、大きな課題だと考えています。
なにしろ、サプライチェーンの上流企業が支払を先延ばしすれば、下流の中小企業の経営が圧迫され、その影響は従業員の生活、地域経済、そして技術投資や持続的な雇用にまで及ぶのですから…。
全国銀行協会は2026年を目途に、約束手形・小切手の全廃を進めています。
手形の全廃は、こうした問題の是正に向けた重要な一歩になるのではと、私は期待せずにはいられません。
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銀行員として符牒を覚え、日々の資金繰りから経営の危うさを読み取っていたあの頃には見えなかった景色が、今ようやく見えてきました。
「お産手形」と揶揄されていたような、過剰な支払繰り延べの時代に別れを告げ、すべての取引先が安心して働ける持続可能なサプライチェーンへ。そんな未来を制度の変化とともに築いていく時期にきていると信じ、本件の進展を見守りたいと思います。
それではまた、次回のブログで。
執筆担当:川上 佳子
*1 出典:公正取引委員会「(令和4年2月16日)手形等のサイトの短縮について」
*2 出典:公正取引委員会「(令和6年10月1日)手形等のサイトの短縮について」
代表取締役 福島 隆史
公認会計士。2008年、SusTBを設立。企業の自主的かつ健全な情報開示をサポート。
川上 佳子
中小企業診断士。銀行、シンクタンク勤務を経て2002年より上場企業の情報開示を支援。